ゥ。されど亞剌伯《アラビア》種の少女なればにや、目と頬とには血の温さぞ籠りたる。想へ汝、我が翁に引かれて、辭《いろ》はずその家に入りしことの無理ならぬを。
廊の闇さはスチピオ[#「スチピオ」に傍線]等の墓に降りゆく道に讓らず。木の欄《てすり》ある梯《はしご》は、行くに足の尖まで油斷せざる稽古を、怠りがちなる男にせさするに宜しかるべし。部屋に入りて見れば、さまで見苦しからず。されど例の少女はあらず。少女あらずば、われこゝに來て何をかせん。技癢《ぎやう》に堪へざる我心をも覺らず、かの翁は永々しき謝恩の演説をぞ始めける。その辭に綴り込めたる亞細亞《アジア》風の譬喩の多かりしことよ。汝が如き詩人ならましかば、そを樂みて聞きもせん。我は恰も消化し難き饌《せん》に向へる心地して、肚《はら》のうちには彼女子今か出づるとのみおもひ居たり。此時翁は感ずべき好き智慧を出しぬ。あはれ此智慧、好き折に出でなば、いかにか我を喜ばしめしならん。翁のいはく。貴きわたりに交らひ給ふ殿達は、定めて金多く費し給ふならん。君も卒《には》かに金なくてかなはぬ時、餘所にてそを借り給はば、二割三割などいひて、夥《おびたゞ》しき利息を取られ給ふべし。さる時あらば、必ず我許に來給へ。利息は申し受けずして、いくばくにても御用だて侍らん。そはイスラエル[#「イスラエル」に傍線]の一枝を護りたる君が情《なさけ》の報なりといひぬ。我は今さる望なきよし答へぬ。翁さらに語を繼ぎて。さらば先づ平かに居給へ。好き葡萄酒一瓶あれば、そを獻《たてまつ》らんといふ。我は今いかなる事を答へしか知らず。されどその詞と共に一間に入り來りしは彼少女なり。いかなる形ぞ。いかなる色ぞ。髮は漆《うるし》の黒さにてしかも澤《つや》あり。こは彼翁の娘なりき。少女はチプリイ[#「チプリイ」に二重傍線]の酒を汲みて我に與へぬ。我がこれを飮みて、少女が壽《ことほぎ》をなしゝとき、その頬にはサロモ[#「サロモ」に傍線]王の餘波《なごり》の血こそ上りたれ。汝はいかにかの天女が、言ふにも足らぬ我腕立を謝せしを知るか。その聲は世にたぐひなき音樂の如く我耳を打ちたり。あはれ、かれは斯世のものにはあらざりけり。されば其姿の忽ち見えずなりて、唯だ翁と我とのみ座に殘りしも宜《むべ》なり。
この物語を聞きて、我は覺えず呼びぬ。そは自然の詩なり。韻語にせばいかに面白からん。
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