媒《なかだち》

士官のいふやう。この時よりして我がいかばかり戀といふものゝ苦を嘗めたるを知るか。我が幾たび空中に樓閣を築きて、又これを毀《こぼ》ちたるを知るか。我が彼|猶太《ユダヤ》をとめに逢はんとていかなる手段を盡しゝを知るか。我は用なきに翁を訪ひて金を借りぬ。我は八日の期限にて、二十「スクヂイ」を借らんといひしに、翁は快く諾《うべな》ひて粲然たる黄金を卓上に並べたり。されど少女は影だに見せざりき。我は三日過ぎて金返しに往きぬ。初翁は我を信ぜること厚しとは云ひしが、それには世辭も雜りたりしことなれば、今わが斯く速に金を返すを見て、翁が喜は眉のあたりに呈《あらは》れき。我は前の日の酒の旨《うま》かりしを稱へしかど、翁自ら瓶取り出して、顫《ふる》ふ痩手にて注ぎたれば、これさへあだなる望となりぬ。この日も少女は影だに見せざりき。たゞ我が梯《はしご》を走りおりしとき、半ば開きたる窓の帷《とばり》すこしゆらめきたるやうなりき。是れ我少女なりしならん。さらば君よ、とわれ呼びしが、窓の中はしづまりかへりて何の應《いらへ》もなし。おほよそ其頃よりして、今日まで盡しゝ我手段は悉くあだなりき。されど我心は決して撓《たわ》むことなし。我は少女が上を忘るゝこと能はず。友よ。我に力を借せ。昔エネエアス[#「エネエアス」に傍線]を戀人に逢せしサツルニア[#「サツルニア」に傍線]とヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]とをば、汝が上とこそ思へ。いざ我をあやしき巖室《いはむろ》に誘はずや。われ。そは我身にはふさはしからぬ業なりと覺ゆ。さはれおん身は猶いかなる手段ありて、我をさへ用ゐんとするか、かゝる筋の事に、この身用立つべしとは、つや/\思ひもかけず。士官。否々。汝が一諾をだに得ば、我事は半ば成りたるものぞ。ヘブライオス[#「ヘブライオス」に二重傍線]の語は美しき詞なり。その詩趣に富みたること多く類を見ずと聞く。汝そを學びて、師には老いたるハノホ[#「ハノホ」に傍線]を撰べ。彼翁は廓内にて學者の群に數へられたり。彼翁汝がおとなしきを見て、娘にも逢はせんをり、汝我がために娘に説かば、我戀何ぞ協《かな》はざることを憂へん。されど此手段を行はんには、決して時機を失ふべからず。駈足《かけあし》にせよ歩度を伸べたる驅足にせよ。燃ゆる毒は我脈を循《めぐ》れり。そは世におそろしき戀の毒なり。異議なくば、あす
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