翌閧ト得させんとおもひしに、早やいづち往きけん見えずなりぬ。その後翁の事をば少しも心に留めざりしに、或日ふと猶太廓《ゲツトオ》の前を過ぎぬ。廓の門を守れる兵士に敬禮せられて、我は始めてこゝは猶太街の入口ぞと覺《さと》りぬ。その時門の内を見入りたるに、黒目がちなる猶太の少女あまた群をなして佇《たゝず》みたり。例のすきごゝろ止みがたくて、我はそが儘馬を乘り入れたり。こゝに住める猶太教徒は全き宗門の組合をなして、その家々軒を連ねて高く聳え、窓といふ窓よりは、「ベレスヒツト、バラ、エロヒム」といふ祈の聲聞ゆ。街には宗徒|簇《むらが》りて、肩と肩と相摩するさま、むかし紅海を渡りけん時も忍ばる。簷端《のきば》には古衣、雨傘その外骨董どもを、懸けも陳《なら》べもしたり。我駒の行くところは、古かなもの、古畫を鬻《ひさ》ぐ露肆《ほしみせ》の間にて、目も當てられず穢《けが》れたる泥※[#「さんずい+卓」、第3水準1−86−82]《ぬかるみ》の裡《うち》にぞありける。家々の戸口より笑みつゝ仰ぎ瞻《み》る少女二人三人を見るほどに、何にても買ひ給はずや、賣り給ふ物あらば價尊く申し受けんと、聲々に叫ぶさま堪ふべくもあらず。想へ汝、かゝる地獄めぐりをこそダンテ[#「ダンテ」に傍線]は書くべかりしなれ。
 忽ち傍なる家より一人の翁馳せ出でゝ、我馬の前に立ち迎へ、我を拜むこと法皇を拜むに異ならず。貴き君よ、我命の親なる君よ。再び君と相見る今日《けふ》は、そも/\いかなる吉日ぞ。このハノホ[#「ハノホ」に傍線]老いたれども、恩義を忘れぬほどの記憶はありとおぼされよ。かく語りつゞけて、末にはいかなる事をか言ひけん、悉くは解《げ》せず、又解したるをも今は忘れたれば甲斐なし。これ去《い》ぬる夜惡少年の杖を跳り越ゆべかりし翁なり。翁は我手の尖《さき》に接吻し、我衣の裾に接吻していふやう。かしこなるは我|破屋《あばらや》なり。されど鴨居《かもゐ》のいと低くて君が如き貴人を入らしむべきならぬを奈何せん。かく言ひては拜み、拜みては言ふ隙に、近きわたりの物共は、我等二人のまはりに集ひ、あからめもせず打ち守りたる、そのうるさゝにえ堪へず、我は早や馬を進めんとしたり。この時ふと仰ぎ見れば、翁が家の樓上よりさし覗きたる少女あり。色好なる我すらかゝる女子を見しことなし。大理石もて刻めるアフロヂテ[#「アフロヂテ」に傍線]の神
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