アとなり。
 今杖の前に立てる翁は、こよひ此街のをぐらき方を、靜に走り過ぎんとしたるなり。「モルラ」といふ戲《たはぶれ》せんと集ひたりし男ども、道に遊び居たりし童等は、早くこれを見付けて、見よ人々、猶太の爺《ぢゞ》こそ來ぬれと叫びぬ。翁はさりげなく過ぎんとせしに、群衆はゆくてに立ちふさがりて通さず。かの肥えたる男は、杖を翁が前に横へて、これを跳り超えて行け、さらずは廓の門の閉ぢらるゝ迄えこそは通すまじけれ、我等は汝が足の健《すこやか》さを見んと呼びたり。童等はもろ聲に、超えよ超えよ、亞伯罕《アブラハム》の神は汝を助くるならんといと喧しく囃《はや》したり。翁は聖母の像を指ざしていふやう。人々あれを見給へ。おん身等もかしこに跪きては、慈悲を願ひ給ふならずや。我はおん身等に對して何の辜《つみ》をもおかしゝことなし。我髮の白きを憫《あはれ》み給はゞ、恙《つゝが》なく家に歸らしめ給へといふ。杖持ちたる男|冷笑《あざわら》ひて、聖母|爭《いか》でか猶太の狗《いぬ》を顧み給はん、疾《と》く跳り超えよといひつゝいよ/\翁に迫る程に、群衆は次第に狹き圈《わ》を畫して、翁の爲《せ》んやうを見んものをと、息を屏《つ》めて覗ひ居たり。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はこの有樣を見るより、前なる群衆を押し退けて圈の中に躍り入り、肥えたる男の側につと寄せて、その杖を奪ひ取り、左の手にこれを指し伸べ、右の手には劍を拔きて振り翳《かざ》し、かの男を叱して云ふやう。この杖をば、汝先づ跳り超えよ。猶與《たゆた》ふことかは。超えずは、汝が頭を裂くべしといふ。群衆は唯だ呆れてベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が面を打ち眺めたり。彼男はしばし夢見る如くなりしが、怒氣を帶びたる詞、鞘《さや》を拂ひし劍、禁軍の號衣、これ皆膽を寒からしむるに足るものなりければ、何のいらへもせず、一跳《ひとはね》して杖を超えたり。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は男の跳り超ゆるを待ちて杖を擲《なげう》ち、その肩口をしかと壓へ、劍の背《せ》もて片頬を打ちていふやう。善くこそしつれ。狗にはふさはしき舉動《ふるまひ》かな。今一たびせよさらば免《ゆる》さんといふ。男は是非なく又跳り超えぬ。初め呆れ居たる群衆は、今その可笑しさにえ堪へず、一度にどつと笑ひぬ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]のいはく。猶太の翁《お
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