w人はわが人に殊なる性を知りておもしろがり給へば、我も亦ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]に對する如く、これに對して物語するやうになりぬ。貴婦人はこれを興あることに思ひて、主人の君に我上を譽め給ふ。主人の君も我を愛し給ふ。この愛は、曩《さき》に料《はか》らずも我母上を、おのが車の轍《わだち》にかけしことありと知りてより、愈※[#二の字点、1−2−22]深くなりまさりぬ。逸したる馬の母上を踏|仆《たふ》しゝとき、車の中に居たるは、こゝの主人の君にぞありける。
貴婦人の名をフランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]といふ。我を率《ゐ》て宮のうちなる畫堂に入り給ひぬ。美しき畫幀《ぐわたう》に對して、我が穉《をさな》き問、癡《おろか》なる評などするを、面白がりて笑ひ給ひぬ。後人々に我詞を語りつぎ給ふごとに、人々皆聲高く笑はずといふことなし。午前は旅人この堂に滿ちたり。又畫工の來ていろ/\なる畫を寫し取れるもあり。午後になれば、堂中に人影なし。此時フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君我を伴ひゆきて、畫ときなどし給ふなり。
特に我心に※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》ひしは、フランチエスコ・アルバニ[#「フランチエスコ・アルバニ」に傍線]が四季の圖なり。「アモレツトオ」といふ者ぞ、と教へられたる、美しき神の使の童どもは、我夢の中より生れ出でしものかと疑はる。その春と題したる畫の中に群れ遊べるさまこそ愛でたけれ。童一人大なる砥《と》を運《めぐら》すあれば、一人はそれにて鏃《やじり》を研ぎ、外の二人は上にありて飛行しつゝも、水を砥の上に灌《そゝ》げり。夏の圖を見れば、童ども樹々のめぐりを飛びかひて、枝もたわゝに實りたる果《このみ》を摘みとり、又清き流を泳ぎて、水を弄《もてあそ》びたり。秋は獵の興を寫せり。手に繼松《ついまつ》取りたる童一人小車の裡《うち》に坐したるを、友なる童子二人牽き行くさまなり。愛はこの優しき獵夫《さつを》に、共に憩ふべき處を指し示せり。冬は童達皆眠れり。美しき女怪水中より出でゝ、眠れる童たちの弓矢を奪ひ、火に投げ入れて焚き棄つ。
神の使の童をば、何故「アモレツトオ」(愛の神童)といふにか。その「アモレツトオ」は、何故|箭《や》を放てる。こは我が今少し詳《つばら》に知らんと願ふところなれど、フランチエスカ[#「
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