ォ給ひぬ。法皇の禁軍《まもりのつはもの》の號衣《しるし》を着たる、少《わか》く美しき士官は我手を握りぬ。人々さま/″\の事を問ふに、我は臆することなく答へつ。その詞に、人々或は譽めそやし、或は高く笑ひぬ。主人入り來りて、我に歌うたへといふに、我は喜んで命に從ひぬ。士官は我に報せんとて、泡立てる酒を酌みてわたしゝかば、我何の心もつかで飮み乾さんとせしに、貴婦人|快《はや》く傍より取り給ひぬ。我口に入りしは少許《すこしばかり》なるに、その酒は火の如く※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのほ》の如く、脈々をめぐりぬ。貴婦人はなほ我傍を離れず、笑を含みて立ち給へり。士官我にこの御方の上を歌へと勸めしに、我又喜んで歌ひぬ。何事をか聯《つら》ねけん、いまは覺えず。人々はわが詞の多かりしを、才豐なりと稱へ、わが臆せざるを、心|敏《さと》しと譽めたり。カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]なる貧きものゝ子なりとおもへば、世の常なる作をも、天才の爲せるわざの如く、愛《め》でくつがへるなるべし。人々は掌を鳴せり。士官は座の隅なる石像に戴かせたりし、美しき月桂冠を取り來りて、笑みつゝ我頭の上に安んじたり。こは固《もと》より戲謔に過ぎざりき。されどわが幼き心には、其間に眞面目なる榮譽もありと覺えられて、又なく嬉しかりき。我は尚席上にて、マリウチア[#「マリウチア」に傍線]、ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]等に教へられし歌をうたひ、又曠野の中なる古墳の栖家《すみか》、眼の光おそろしき水牛の事など人々に語り聞せつ。時は惜めども早く過ぎて、我は媼に引かれて歸りぬ。くだもの、果子など多く賜り、白銀幾つか兜兒《かくし》にさへ入れられたるわが喜はいふもさらなり、媼は衣服、器什くさ/″\の外、二瓶の葡萄酒をさへ購《あがなひ》ひ得て、幸《さち》ある日ぞとおもふなるべし。夜は草木の上に眠れり。されど仰いでおほ空を見れば、皎々《かう/\》たる望月《もちづき》、黄金の船の如く、藍碧なる青雲の海に泛《うか》びて、焦《こが》れたるカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野邊に涼をおくり降せり。
 家に還りてより、優しき貴女の姿、賑はしき拍手の聲、寤寐《ごび》の間斷えず耳目を往來せり。喜ばしきは折々我夢の現《うつゝ》になりて、又ボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の館に迎へらるゝ事なりき。かの貴
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