い声でしぶしぶ云った。
「別に虚無主義なんという纏まったものがあったのではないから、無政府主義のような極まった思想が成り立ってからは、人があんな詞を使わなくなったのだろう。」
「名附親は誰だね」と、犬塚が云った。
「自分で anarchiste《アナルシスト》 と名告《なの》って、君主だの主権者だのというものを認めない、人間の意志で縛っては貰わないと書いたのは Proudhon《プルウドン》 で、六十年程前(1849)の事でした。Nihiliste《ニヒリスト》 の方は、犬塚君はいろんな文学雑誌なんぞを好く見ておられるから御承知でしょうが、Turgenjew《ツルゲニエフ》 の父|等《ら》と子等という小説に書いてある造語ですね。あれの出たのは五十年程前(1862)でした。」
「それでは無政府主義の方が先きじゃないか」と、山田が云った。
「それはそうだ。しかしツルゲニエフがあの小説を書いた時には、まだ Bakunin《バクニン》 が無政府主義をロシアへ持って帰ってはいなかったのだ。それに虚無ということも、あの小説に書いてあるのと、後に広く使われるようになってからの虚無とは、まるで違ってい
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