ら甘みがあるかというに、それもない。あのとき一時発現した力の感じ、発揚の心状は、すぐに迹《あと》もなく消え失せてしまって、この部屋に帰って、この机の前に据わってからは、何の積極的な感じもない。この体に大いなる生理的変動を生じたものとは思われない。尤も幾分かいつもより寂しいようには思う。しかしその寂しさはあの根岸の家に引き寄せられる寂しさではない。恋愛もなければ、係恋《あこがれ》もない。
一体こんな閲歴が生活であろうか。どうもそうは思われない。真の充実した生活では慥にない。
己には真の生活は出来ないのであろうか。己もデカダンスの沼に生えた、根のない浮草で、花は咲いても、夢のような蒼白い花に過ぎないのであろうか。
もう書く程の事もない。夜の明けないうちに少し寐ようか。しかし寐られれば好《い》いが。只この寐られそうにないのだけが、興奮の記念かも知れない。それともその余波さえ最早《もはや》消えてしまっていて、今寐られそうにないのは、長い間物を書いていたせいかも知れない。
十一
純一の根岸に行った翌日は、前日と同じような好《い》い天気であった。
純一はいつも随分夜をふかして本なぞを読むことがあっても、朝起きて爽快を覚えないことはないのであるが、今朝、日の当っている障子の前にすわって見れば、鈍い頭痛がしていて、目に羞明《しゅうめい》を感じる。顔を洗ったら、直るだろうと思って、急いで縁に出た。
細かい水蒸気を含んでいる朝の空気に浸されて、物が皆青白い調子に見える。暇があるからだと云って、長次郎が松葉を敷いてくれた蹲《つくば》いのあたりを見れば、敷松葉の界《さかい》にしてある、太い縄の上に霜がまだらに降っている。
ふいと庭下駄を穿いて門に出て、しゃがんで往来を見ていた。絆纏《はんてん》を着た職人が二人きれぎれな話をして通る。息が白く見える。
暫《しばら》くしゃがんでいるうちに、頭痛がしなくなった。縁に帰って楊枝《ようじ》を使うとき、前日の記憶がぼんやり浮んで来た。あの事を今一度ゆっくり考えて見なくてはならないというような気がする。障子の内では座敷を掃く音がしている。婆あさんがもう床を上げてしまって、東側の戸を開けて、埃《ほこり》を掃き出しているのである。
顔を急いで洗って、部屋に這入って見ると、綺麗《きれい》に掃除がしてある。目はすぐに机の上に置いて
前へ
次へ
全141ページ中49ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング