青年
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)芝日蔭町《しばひかげちょう》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)新橋|停留場《ていりゅうば》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「革+疆のつくり」、第3水準1−93−81、17−12]
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壱
小泉純一は芝日蔭町《しばひかげちょう》の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋|停留場《ていりゅうば》から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町《すだちょう》の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分《おいわけ》から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現《ねづごんげん》の表坂上にある袖浦館《そでうらかん》という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。
此処《ここ》は道が丁字路になっている。権現前から登って来る道が、自分の辿《たど》って来た道を鉛直に切る処《ところ》に袖浦館はある。木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造《まがいせいようづくり》である。入口《いりくち》の鴨居《かもい》の上に、木札が沢山並べて嵌《は》めてある。それに下宿人の姓名が書いてある。
純一は立ち留まって名前を読んで見た。自分の捜す大石|狷太郎《けんたろう》という名は上から二三人目に書いてあるので、すぐに見附かった。赤い襷《たすき》を十文字に掛けて、上《あが》り口《くち》の板縁に雑巾《ぞうきん》を掛けている十五六の女中が雑巾の手を留めて、「どなたの所《ところ》へいらっしゃるの」と問うた。
「大石さんにお目に掛りたいのだが」
田舎から出て来た純一は、小説で読み覚えた東京|詞《ことば》を使うのである。丁度|不慣《ふなれ》な外国語を使うように、一語一語考えて見て口に出すのである。そしてこの返事の無難に出来たのが、心中で嬉しかった。
雑巾を掴《つか》んで突っ立った、ませた、おちゃっぴいな小女《こおんな》の目に映じたのは、色の白い、卵から孵《かえ》ったばかりの雛《ひよこ》のような目をしている青年である。薩摩絣《さつまがすり》の袷《あわせ》に小倉《こくら》の袴《はかま》を穿《は》いて、同じ絣の袷羽織を着ている。被物《か
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