ぶりもの》は柔かい茶褐《ちゃかつ》の帽子で、足には紺足袋に薩摩下駄を引っ掛けている。当前《あたりまえ》の書生の風俗ではあるが、何から何まで新しい。これで昨夕《ゆうべ》始めて新橋に着いた田舎者とは誰にも見えない。小女は親しげに純一を見て、こう云った。
「大石さんの所《とこ》へいらっしったの。あなた今時分いらっしったって駄目よ。あの方は十時にならなくっちゃあ起きていらっしゃらないのですもの。ですから、いつでも御飯は朝とお午《ひる》とが一しょになるの。お帰りが二時になったり、三時になったりして、それからお休みになると、一日|寐《ね》ていらっしってよ」
「それじゃあ、少し散歩をしてから、又来るよ」
「ええ。それが好うございます」
 純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。二三歩すると袂《たもと》から方眼図の小さく折ったのを出して、見ながら歩くのである。自分の来た道では、官員らしい、洋服の男や、角帽の学生や、白い二本筋の帽を被った高等学校の生徒や、小学校へ出る子供や、女学生なんぞが、ぞろぞろと本郷の通《とおり》の方へ出るのに擦《す》れ違ったが、今坂の方へ曲って見ると、まるで往来《ゆきき》がない。右は高等学校の外囲《そとがこい》、左は角が出来たばかりの会堂で、その傍《そば》の小屋のような家から車夫が声を掛けて車を勧めた処を通り過ぎると、土塀や生垣《いけがき》を繞《めぐ》らした屋敷ばかりで、その間に綺麗《きれい》な道が、ひろびろと附いている。
 広い道を歩くものが自分ひとりになると共に、この頃の朝の空気の、毛髪の根を緊縮させるような渋み味を感じた。そして今小女に聞いた大石の日常の生活を思った。国から態々《わざわざ》逢《あ》いに出て来た大石という男を、純一は頭の中で、朧気《おぼろげ》でない想像図にえがいているが、今聞いた話はこの図の輪廓《りんかく》を少しも傷《きずつ》けはしない。傷けないばかりではない、一層明確にしたように感ぜられる。大石というものに対する、純一が景仰《けいこう》と畏怖《いふ》との或る混合の感じが明確になったのである。
 坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広いこの坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して附いている。純一は坂の上で足を留めて向うを見た。
 灰色の薄曇をしている空の下に、同じ灰色に見えて、しかも透き徹《とお》った空気に浸されて、向うの上野の山
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