と自分の立っている向《むこ》うが岡《おか》との間の人家の群《むれ》が見える。ここで目に映ずるだけの人家でも、故郷の町程の大《おおき》さはあるように思われるのである。純一は暫《しばら》く眺めていて、深い呼吸をした。
 坂を降りて左側の鳥居を這入《はい》る。花崗岩《みかげいし》を敷いてある道を根津神社の方へ行《ゆ》く。下駄の磬《けい》のように鳴るのが、好《い》い心持である。剥《は》げた木像の据えてある随身門《ずいじんもん》から内を、古風な瑞籬《たまがき》で囲んである。故郷の家で、お祖母様《ばあさま》のお部屋に、錦絵《にしきえ》の屏風《びょうぶ》があった。その絵に、どこの神社であったか知らぬが、こんな瑞垣《たまがき》があったと思う。社殿の縁には、ねんねこ絆纏《ばんてん》の中へ赤ん坊を負《おぶ》って、手拭《てぬぐい》の鉢巻をした小娘が腰を掛けて、寒そうに体を竦《すく》めている。純一は拝む気にもなれぬので、小さい門を左の方へ出ると、溝《みぞ》のような池があって、向うの小高い処には常磐木《ときわぎ》の間に葉の黄ばんだ木の雑《まじ》った木立がある。濁ってきたない池の水の、所々に泡の浮いているのを見ると、厭《いや》になったので、急いで裏門を出た。
 藪下《やぶした》の狭い道に這入る。多くは格子戸の嵌まっている小さい家が、一列に並んでいる前に、売物の荷車が止めてあるので、体を横にして通る。右側は崩れ掛って住まわれなくなった古長屋に戸が締めてある。九尺二間《くしゃくにけん》というのがこれだなと思って通り過ぎる。その隣に冠木門《かぶきもん》のあるのを見ると、色川国士別邸と不恰好《ぶかっこう》な木札に書いて釘附《くぎづけ》にしてある。妙な姓名なので、新聞を読むうちに記憶していた、どこかの議員だったなと思って通る。そらから先きは余り綺麗でない別荘らしい家と植木屋のような家とが続いている。左側の丘陵のような処には、大分《だいぶ》大きい木が立っているのを、ひどく乱暴に刈り込んである。手入の悪い大きい屋敷の裏手だなと思って通り過ぎる。
 爪先上《つまさきあ》がりの道を、平になる処まで登ると、又右側が崖《がけ》になっていて、上野の山までの間の人家の屋根が見える。ふいと左側の籠塀《かごべい》のある家を見ると、毛利某という門札が目に附く。純一は、おや、これが鴎村《おうそん》の家だなと思って、一寸《ちょっ
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