と》立って駒寄《こまよせ》の中を覗《のぞ》いて見た。
干からびた老人の癖に、みずみずしい青年の中にはいってまごついている人、そして愚痴と厭味とを言っている人、竿《さお》と紐尺《ひもじゃく》とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人の事だから、今時分は苦虫を咬《か》み潰《つぶ》したような顔をして起きて出て、台所で炭薪《すみまき》の小言でも言っているだろうと思って、純一は身顫《みぶるい》をして門前を立ち去った。
四辻《よつつじ》を右へ坂を降りると右も左も菊細工の小屋である。国の芝居の木戸番のように、高い台の上に胡坐《あぐら》をかいた、人買か巾着切りのような男が、どの小屋の前にもいて、手に手に絵番附のようなものを持っているのを、往来の人に押し附けるようにして、うるさく見物を勧める。まだ朝早いので、通る人が少い処へ、純一が通り掛かったのだから、道の両側から純一一人を的《あて》にして勧めるのである。外から見えるようにしてある人形を見ようと思っても、純一は足を留めて見ることが出来ない。そこで覚えず足を早めて通り抜けて、右手の広い町へ曲った。
時計を出して見れば、まだ八時三十分にしかならない。まだなかなか大石の目の醒《さ》める時刻にはならないので、好《い》い加減な横町を、上野の山の方へ曲った。狭い町の両側は穢《きた》ない長屋で、塩煎餅《しおせんべい》を焼いている店や、小さい荒物屋がある。物置にしてある小屋の開戸《ひらきど》が半分|開《あ》いている為めに、身を横にして通らねばならない処さえある。勾配《こうばい》のない溝に、芥《ごみ》が落ちて水が淀《よど》んでいる。血色の悪い、瘠《や》せこけた子供がうろうろしているのを見ると、いたずらをする元気もないように思われる。純一は国なんぞにはこんな哀《あわれ》な所はないと思った。
曲りくねって行《ゆ》くうちに、小川《こがわ》に掛けた板橋を渡って、田圃《たんぼ》が半分町になり掛かって、掛流しの折のような新しい家の疎《まばら》に立っている辺《あたり》に出た。一軒の家の横側に、ペンキの大字で楽器製造所と書いてある。成程、こんな物のあるのも国と違う所だと、純一は驚いて見て通った。
ふいと墓地の横手を谷中《やなか》の方から降りる、田舎道のような坂の下に出た。灰色の雲のある処から、ない処へ日が廻《まわ》って、黄いろい、寂しい暖み
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