き上がった。それは奥さんの或る姿勢である。己がラシイヌを借りて帰ろうとすると、寒いからというので、小間使に言い付けて、燗《かん》をした葡萄酒《ぶどうしゅ》を出させて、己がそれを飲むのをじっと見ていながら、それまで前屈《まえかが》みになって掛けていられた長椅子に、背を十分に持たせて白足袋を穿《は》いた両足をずっと前へ伸ばされた。記憶から浮き上がったのは意味のない様なあの時の姿勢である。
あれを思い出すと同時に、己は往《ゆ》くときから帰るまでの奥さんとの対話を回顧して見て、一つも愛情にわたる詞のなかったのに驚いた。そしてあらゆる小説や脚本が虚構ではあるまいかと疑って見た。その時ふいとAude《オオド》という名が思い出された。只オオドの目は海のように人を漂わしながら、死せる目であった、空虚な目であったというのに、奥さんの謎の目は生きているだけが違う。あの目はいろいろな事を語った。しかしあの姿勢も何事をか己に語ったのである。あんな語りようは珍らしい。飽くまで行儀正しい処と、一変して飽くまでfrivole《フリヴオル》な処とのあるのも、あれもオオドだと、つくづく思いながら歩いていたら、美術学校と図書館との間を曲がる曲がり角で、巡査が突然角燈を顔のところへ出したので、びっくりした。
己は今日の日記を書くのに、目的地に向って迂路を取ると云ったが、これでは遂に目的地を避けて、その外辺を一周したようなものである。しかし己は知らざる人であったのが、今日知る人になったのである。そしてその一時涌き立った波が忽《たちま》ち又|斂《おさ》まって、まだその時から二時間余りしか立たないのに、心は哲人の如くに平静になっている。己はこんな物とは予期していなかった。
予期していなかったのはそればかりではない。己が知る人になるのに、こんな機縁で知る人になろうとも予期していなかった。己は必ず恋愛を待って、始て知る人になろうとも思わなかったが、又恋愛というものなしに、自衛心が容易に打ち勝たれてしまおうとも思わなかった。そしてあの坂井夫人は決して決して己の恋愛の対象ではないのである。
己に内面からの衝動、本能の策励《さくれい》のあったのは已《すで》に久しい事である。己は心が不安になって、本を読んでいるのに、目が徒らに文字を見て、心がその意義を繹《たず》ねることの出来なくなることがあった。己はふいと何の目
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