は「`」付き」]《モリエエル》とは立派に製本した全集が揃えてある。それからVoltaire《ヴォルテエル》の物やHugo《ユウゴオ》の物が大分ある。
背革の文字をあちこち見ているところへ、奥さんが出て来られた。
己は謎らしい目を再び見た。己は誰も云いそうな、簡単で平凡な詞《ことば》と矛盾しているような表情を再びこの女子《おんな》の目の中に見出した。そしてそれを見ると同時に、己のここへ来たのは、コルネイユやラシイヌに引き寄せられたのではなくて、この目に引き寄せられたのだと思った。
己は奥さんとどんな会話をしたかを記憶しない。この記憶の消え失せたのはインテレクトの上の余り大きい損耗ではないに違いない。しかし奇妙な事には、己の記憶は決して空虚ではない。談話を忘れる癖に或る単語を覚えている。今一層適切に言えば、言語を忘れて音響を忘れないでいる。或る単語が幾つか耳の根に附いているようなのは、音響として附いているのである。
記憶の今一つの内容は奥さんの挙動である。体の運動である。どうして立っておられたか、どうして腰を掛けられたか、又指の尖《さき》の余り細り過ぎているような手が、いかに動かずに、殆ど象徴的に膝の上に繋ぎ合わされていたか、その癖その同じ手が、いかに敏捷《びんしょう》に、女中の運んで来た紅茶を取り次いで渡したかというような事である。
こういう音響や運動の記憶が、その順序の不確《ふたしか》な割に、その一々の部分がはっきりとして残っているのである。
ここに可笑《おか》しい事がある。己は奥さんの運動を覚えているが、その静止しておられる状態に対しては記憶が頗《すこぶ》る朧気《おぼろげ》なのである。その美しい顔だけでも表情で覚えているので、形で覚えているのではない。その目だけでもそうである。国にいた時、或る爺《じじ》いが己に、牛の角と耳とは、どちらが上で、どちらが下に附いておりますかと問うた。それ位の事は己も知っていたから、直ぐに答えたら、爺いが云った。「旦那方でそれが直ぐにお分かりになるお方はめったにござりません」と云った。形の記憶は誰《たれ》も乏しいと見える。独り女の顔ばかりではない。
そんなら奥さんの着物に就いて、どれだけの事を覚えているか。これがいよいよ覚束《おぼつか》ない。記憶は却て奥さんの詞をたどる。己が見るともなしに、奥さんの羽織の縞を見ていると、奥
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