ないでも好さそうなものである。己はそういう経験を繰り返したくなかった。そこで断然初めからことわることにした。然《しか》るにそのことわるということの経験は甚だ乏しい。己だって国から送って貰うだけの金を何々に遣うという予算を立てているから、不用な金はない。しかしその予算を狂わせれば、貸されない事はない。かれの要求するだけの金は現に持っているのである。それを無いと云おうか。そんな嘘は衝《つ》きたくない。又嘘を衝いたって、それが嘘だということは、先方へはっきり知れている。それは不愉快である。
つい国を立つすぐ前である。やはりこんな風に心中でとつ置いつした結果、「君これは返さなくても好《い》いが、僕はこれきり出さないよ」と云った事があった。そしてその友達とはそれきり絶交の姿になった。実につまらない潔癖であったのだ。嘘を衝きたくないからと云って、相手の面目を潰《つぶ》すには及ばないのである。それよりはまだ嘘を衝いた方が好《よ》いかも知れない。
己は勇気を出して瀬戸にこう云った。「僕はこれまで悪い経験をしている。君と僕との間には金銭上の関係を生ぜさせたくない。どうぞその事だけは已《や》めてくれ給え」と云った。瀬戸は驚いたような目附をして己の顔を見ていたが、外の話を二つ三つして、そこそこに帰ってしまった。あの男は己よりは世慣れている。多分あの事の為めに交際を廃《や》めはすまい。只その態度を変えるだろう。もう「君はえらいよ」は言わなくなって、却《かえっ》て少しは前より己をえらく思うかも知れない。
しかし己はこんな事を書く積りで、日記を開《あ》けたのではなかった。目的の不慥《ふたしか》な訪問をする人は、故《ことさ》らに迂路《うろ》を取る。己は自分の書こうと思う事が、心にはっきり分かっていないので、強いて余計な事を書いているのではあるまいか。
午後から坂井夫人を訪ねて見た。有楽座で識りあいになってから、今日尋ねて行《ゆ》くまでには、実は多少の思慮を費していた。行こうか行くまいかと、理性に問うて見た。フランスの本が集めてあるというのだから、往《い》って見たら、利益を得《え》ることもあろうとは思ったが、人の噂に身の上が疑問になっている奥さんの邸《やしき》に行《ゆ》くのは、好くあるまいかと思った。ところが、理性の上でpro《プロウ》の側の理由とcontra《コントラ》の側の理由とが争っ
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