はもう半夜を過ぎている。もう今日ではなくなっている。しかし変に気が澄んでいて、寐《ね》ようと思ったって、寐られそうにはない。
 その今日でなくなった今日には閲歴がある。それが人生の閲歴、生活の閲歴でなくてはならない筈《はず》である。それを書こうと思って久しく徒《いたずら》に過ぎ去る記念に、空虚な数字のみを留《とど》めた日記の、新しいペエジを開いたのである。
 しかし己の書いている事は、何を書いているのだか分からない。実は書くべき事が大いにある筈で、それが殆ど無いのである。やはり空虚な数字のみにして置いた方が増しかも知れないと思う位である。
 朝は平凡な朝であった。極《き》まって二三日置きに国から来る、お祖母《ば》あ様の手紙が来た。食物《しょくもつ》に気を附けろ、往来で電車や馬車や自動車に障《さわ》って怪我をするなというような事が書いてあった。食物や車の外には、危険物のあることを知らないのである。
 それから日曜だというので、瀬戸が遣って来た。ひどく知己らしい事を言う。何か己とあの男と秘密を共有していて、それを同心|戮力《りくりょく》して隠蔽《いんぺい》している筈だというような態度を取って来る。そして一日の消遣策《しょうけんさく》を二つ三つ立てて己の採択に任せる。その中に例の如くune direction dominante《ユヌ ジレクション ドミナント》がある。それは磁石の針の如くに、かの共有している筈の秘密を指しているのである。己はいつもなるべくそれと方向を殊にしている策を認容するのであるが、こん度はためしにどれをも廃棄して、「きょうは僕は内で本を読むのだ」と云って見た。その結果は己の予期した通りであった。瀬戸は暫くもじもじしていたがとうとう金を貸せと云った。
 己にはかれの要求を満足させることは、さほどむずかしくはなかった。しかし己は中学時代に早く得ている経験を繰り返したくなかった。「君こないだのもまだ返さないで、甚だ済まないが」と云うのは尤《もっと》も無邪気なのである。「長々|難有《ありがと》う」と云って一旦出して置いて、改めてプラス幾らかの要求をするというのは古い手である。それから一番|振《ふる》っているのは、「もうこれだけで丁度になりますからどうぞ」というのであった。端《はし》たのないようにする物、纏《まと》めて置く物に事を闕《か》いて、借金を纏めて置か
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