《い》いような、美しい細君を迎えて、まだ一年と立たないうちに、脊髄《せきずい》病で亡くなられたということは、中学にいた時、噂《うわさ》に聞いていたのである。
 噂はそれのみではない。先生は本職の法科大学教授としてよりは、代々の当路者から種々《いろいろ》な用事を言い附けられて、随分多方面に働いておられたので、亡くなられた跡には一廉《ひとかど》の遺産があった。それを未亡人が一人で管理していて、旧藩主を始め、同県の人と全く交際を絶って、何を当てにしているとも分からない生活をしていられる。子がないのに、養子をせられるでもない。誰《たれ》も夫人と親密な人というもののあることを聞かない。先生の亡くなる僅か前に落成した、根岸のvilla《ヴィルラ》風の西洋造に住まっておられるが、静かに夫の跡を弔っていられるらしくはない。先生の存生《ぞんじょう》の時よりも派手な暮らしをしておられる。その生活は一《いつ》の秘密だということであった。
 純一が青年の空想は、国でこの噂話を聞いた時、種々《いろいろ》な幻像を描き出していたので、坂井夫人という女は、面白い小説の女主人公のように、純一の記憶に刻み附けられていたのである。
 純一は坂井先生の名を聞いていたという返事をして、奥さんの顔を見ると、その顔には又さっきの無意味な、若《もし》くは意味の掩《おお》われている微笑が浮んでいる。丁度二人は西の階段の下に佇《たたず》んでいたのである。
「上へ上がって見ましょうか」と奥さんが云った。
「ええ」
 二人は階段を登った。
 その時上の廊下から、「小泉君じゃあないか」と声を掛けるものがある。上から四五段目の処まで登っていた純一が、仰向いて見ると、声の主は大村であった。
「大村君ですか」
 この返事をすると、奥さんは頤《あご》で知れない程の会釈をして、足を早めて階段を登ってしまって、一人で左へ行った。
 純一は大村と階段の上り口に立っている。丁度Buffet《ビュッフェエ》と書いて、その下に登って左を指した矢の、書き添えてある札を打ち附けた柱の処である。純一は懐かしげに大村を見て云った。
「好く丁度一しょになったものですね。不思議なようです」
「なに、不思議なものかね。興行は二日しかない。我々は是非とも来る。そうして見ると、二分の一のprobabilite[# 最後の「e」は「´」付き]《プロバビリテエ》で
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