い物ばかり御覧になるのかも知れませんが、古い本にだって、宜《よろ》しいものはございますでしょう。御遠慮はない内《うち》なのでございますの」
 前から識《し》り合っている人のように、少しの窘迫《きんぱく》の態度もなく、歩きながら云われたのである。純一は名刺を出して、奥さんに渡しながら、素直にこう云った。
「わたくしは国から出て参ったばかりで、谷中に家を借りておりますが、本は殆どなんにも持っていないと云っても宜しい位です。もし文学の本がございますのですと、少し古い本で見たいものが沢山ございます」
「そうですか。文学の本がございますの。全集というような物が揃えてございますの。その外は歴史のような物が多いのでしょう。亡くなった主人は法律学者でしたが、その方の本は大学の図書館に納めてしまいましたの」
 奥さんが未亡人《びぼうじん》だということを、この時純一は知った。そして初めて逢った自分に、宅へ本を見に来いなんぞと云われるのは、一家の主権者になっていられるからだなと思った。奥さんは姓名だけの小さく書いてある純一の名刺を一寸《ちょっと》読んで見て、帯の間から繻珍《しゅちん》の紙入を出して、それへしまって、自分の名刺を代りにくれながら、「あなた、お国は」と云った。
「Y県です」
「おや、それでは亡くなった主人と御同国でございますのね。東京へお出《いで》になったばかりだというのに、ちっともお国詞が出ませんじゃございませんか」
「いいえ。折々出ます」
 奥さんの名刺には坂井れい子と書いてあった。純一はそれを見ると、すぐ「坂井|恒《こう》先生の奥さんでいらっしゃったのですね」と云って、丁寧に辞儀をした。
「宅を御存じでございましたの」
「いいえ。お名前だけ承知していましたのです」
 坂井先生はY県出身の学者として名高い人であった。Montesquieu《モンテスキュウ》のEsprit des lois《エスプリイ デ ロア》を漢文で訳したのなんぞは、評判が高いばかりで、広く世間には行われなかったが、Code Napoleon[#「Napoleon」の「e」は「´」付き]《コオド ナポレオン》の典型的な飜訳《ほんやく》は、先生が亡くなられても、価値を減ぜずにいて、今も坂井家では、これによって少からぬ収入を得ているのである。純一も先生が四十を越すまで独身でいて、どうしたわけか、娘にしても好
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