学の教師に、山村というお爺いさんがいて、それがSpiritisme《スピリチスム》に関する、妙な迷信を持っていた。その教師が云うには、人は誰でも体の周囲《まわり》に特殊な雰囲気を有している。それを五官を以てせずして感ずるので、道を背後《うしろ》から歩いて来る友達が誰《たれ》だということは、見返らないでも分かると云った。純一は五官を以てせずして、背後《はいご》に受ける視線を感ずるのが、不愉快でならなかった。
幕が開《あ》いた。覿面《てきめん》に死と相見ているものは、姑息《こそく》に安んずることを好まない。老いたる処女エルラは、老いたる夫人の階下の部屋へ、檻の獣《けもの》を連れて来る。鷸蚌《いっぽう》ならぬ三人に争われる、獲《え》ものの青年エルハルトは、夫人に呼び戻されて、この場へ帰る。母にも従わない。父にも従わない。情誼《じょうぎ》の縄で縛ろうとするおばにも従わない。「わたくしは生きようと思います」と云う、猛烈な叫声を、今日の大向うを占めている、数多《あまた》の学生連に喝采《かっさい》せられながら、萎《しお》れる前に、吸い取られる限《かぎり》の日光を吸い取ろうとしている花のようなヴィルトン夫人に連れられて、南国をさして雪中を立とうとする、銀の鈴の附いた橇《そり》に乗りに行《ゆ》く。
この次の幕間《まくあい》であった。少し休憩の時間が長いということが、番附にことわってあったので、見物が大抵一旦席を立った。純一は丁度自分が立とうとすると、それより心持早く右手の奥さんが立ったので、前後から人に押されて、奥さんの体に触れては離れ、離れては触れながら、外の廊下の方へ歩いて行く。微《かすか》なparfum《パルフュウム》の※[#「※」は「勹+二」、第3水準1−14−75、61−2]《におい》がおりおり純一の鼻を襲うのである。
奥さんは振り向いて、目で笑った。純一は何を笑ったとも解《かい》せぬながら、行儀好く笑い交した。そして人に押されるのが可笑しいのだろうと、跡から解釈した。
廊下に出た。純一は人が疎《まばら》になったので、遠慮して奥さんの傍《そば》を離れようと思って、わざと歩度を緩め掛けた。しかしまだ二人の間に幾何《いくばく》の距離も出来ないうちに、奥さんが振り返ってこう云った。
「あなたフランス語をなさるのなら、宅に書物が沢山ございますから、見にいらっしゃいまし。新し
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