マを上がりますでしょうね」
「ああ、そうか。元日だったな。そんなら顔でも洗って来よう」
 純一は楊枝《ようじ》を使って顔を洗う間、綺麗な女中の事を思っていた。あの女はどこか柔かみのある、気に入った女だ。立つ時、特別に心附けを遣ろうかしら。いや、廃《よ》そう。そうしては、なんだか意味があるようで可笑《おか》しい。こんな事を思ったのである。
 部屋に返るとき、入口《いりくち》で逢ったのは並の女中であった。夜具を片附けてくれたのであろう。
 雑煮のお給仕も並のであった。その女中に九時八分の急行に間に合うように、国府津へ行《い》くのだと云って勘定を言い附けると、仰山らしく驚いて、「あら、それでは御養生にもなんにもなりませんわ」と云った。
「でも己より早く帰った人もあるじゃないか」
「それは違いますわ」
「どう違う」
「あれは騒ぎにいらっしゃる方ですもの」
「なる程。騒ぐことは己には出来ないなあ」
 雑煮の代りを取りに立つとき、女中は本当に立つのかと念を押した。そして純一が頷《うなず》くのを見て、独言《ひとりごと》のようにつぶやいた。
「お絹さんがきっとびっくりするわ」
「おい」と純一は呼び留めた。「お絹さんというのは誰《だれ》だい」
「そら、けさこちらへお火を入れにまいったでしょう。きのうあなたがお着きになると、あれが直ぐにそう云いましたわ。あの方は本を沢山持っていらっしゃったから、きっとお休みの間勉強をしにいらっしゃったのだって」
 こう云って置いて、女中は通い盆を持って廊下へ出た。
 純一はお絹と云う名が、自分の想像したあの女の性質に相応しているように思って、一種の満足を覚えた。そしてそのお絹が忙《いそが》しい中で自分を観察してくれたのを感謝すると同時に、自分があの女の生活を余り卑しく考えたのを悔いた。
 雑煮の代りが来た。給仕の女中から、お絹の事を今少し精《くわ》しく聞き出すことは、むずかしくもなさそうであったが、純一は遠慮して問わなかった。意味があって問うように思われるのがつらかったのである。
 純一は取り散らしたものを革包の中に入れながら、昨夜《ゆうべ》よりも今朝起きた時よりも、だいぶ冷かになった心で、自己を反省し出した。東京へ帰ろうと云う決心を飜《ひるがえ》そうとは思わない。又それを飜す必要をも見出さない。帰って書いて見ようと思う意志も衰えない。しかしその意志の
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