黶sば》あさんが話して聞せた伝説であるからである。この伝説を書こうと云うことは、これまでにも度々企てた。形式も種々に考えて、韻文にしようとしたり、散文にしようとしたり、叙事的にFlaubert《フロオベル》の三つの物語の中の或る物のような体裁を学ぼうと思ったこともあり、Maeterlinck《マアテルリンク》の短い脚本を藍本《らんほん》にしようと思ったこともある。東京へ出る少し前にした、最後の試みは二三十枚書き掛けたままで、谷中にある革包《かばん》の底に這入っている。あれはその頃知らず識《し》らずの間に、所謂《いわゆる》自然派小説の影響を受けている最中であったので、初めに狙って書き出したArchaisme[#「i」は「¨」付き]《アルシャイスム》が、意味の上からも、詞《ことば》の上からも途中で邪魔になって来たのであった。こん度は現代語で、現代人の微細な観察を書いて、そして古い伝説の味《あじわい》を傷《きずつ》けないようにして見せようと、純一は工夫しているのである。
 こんな事を思って、暫く前から勝手の方でがたがた物音のしているのを、気にも留めずにいると、天井の真中に手繰り上げてある電燈が突然消えた。それと同時に、もう外は明るくなっていると見えて、欄間《らんま》から青白い光が幾筋かの細かい線になってさし込んでいる。
 女中が十能《じゅうのう》を持って這入って来て、「おや」と云った。どうしたわけか、綺麗《きれい》な分の女中が来たのである。「つい存じませんのでございますから」と云いながら、火鉢に火を活《い》けている。
 ろくろく寝る隙《ひま》もなかったと思われるのに、女は綺麗に髪を撫《な》で附けて、化粧をしている。火を活けるのがだいぶ手間が取れる。それに無口な性《たち》ででもあるか、黙っている。
 純一は義務として何か言わなくてはならないような気がした。
「ねむたかないか」と云って見た。
「いいえ」と女の答えた頃には、純一はまずい、sentimental《サンチマンタル》な事を言ったように感じて、後悔している。「おやかましかったでしょう」と、女が反問した。
「なに。好く寐られた」と、純一は努めて無造做《むぞうさ》に云った。
 障子の外では、がらがらと雨戸を繰り明ける音がし出した。女は丁度火を活けてしまって、火鉢の縁《ふち》を拭いていたが、その手を停めて云った。
「あのお雑
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