ヰな中へ、極《ごく》軽い疑惑が抜足《ぬきあし》をして来て交《まじ》る。それはこれまで度々一時の発動に促されて書き出して見ては、挫折《ざせつ》してしまったではないかと云う※[#「※」は「口+耳」、第3水準1−14−94、213−16]《ささや》きである。幸な事には、この※[#「※」は「口+耳」、第3水準1−14−94、読みは「ささや」、213−17]きは意志を麻痺《まひ》させようとするだけの力のあるものではない。却て製作の欲望を刺戟して、抗抵を増させるかと思われる位である。
 これに反して、少しの間に余程変じたのは、坂井夫人に対する感じである。面当てをしよう、思い知らせようと云うような心持が、ゆうべから始終幾分かこの感じに交っていたが、今明るい昼の光の中で考えて見ると、それは慥《たし》かに錯《あやま》っている。我ながらなんと云うけちな事を考えたものだろう。まるで奴隷のような料簡《りょうけん》だ。この様子では己はまだ大いに性格上の修養をしなくてはならない。それにあの坂井の奥さんがなんで己が立ったと云って、悔恨や苦痛を感ずるものか。八年前に死んだ詩人Albert Samain《アルベエル サメン》はXanthis《クサンチス》と云う女人形の恋を書いていた。恋人の中にはplatonique《プラトニック》な公爵がいる。芸術家風の熱情のある青年音楽家がいる。それでもあの女人形を満足させるには、力士めいた銅人形がいなくてはならなかった。岡村は恐らくは坂井の奥さんの銅人形であろう。己はなんだ。青年音楽家程の熱情をも、あの奥さんに捧《ささ》げてはいない。なんの取柄があるのだ。己が箱根を去ったからと云って、あの奥さんは小使を入れた蝦蟇口《がまぐち》を落した程にも思ってはいまい。そこでその奥さんに対して、己は不平がる権利がありそうにはない。一体己の不平はなんだ。あの奥さんを失う悲《かなしみ》から出た不平ではない。自己を愛する心が傷つけられた不平に過ぎない。大村が恩もなく怨《うらみ》もなく別れた女の話をしたっけ。場合は違うが、己も今恩もなく怨もなく別れれば好《い》いのだ。ああ、しかしなんと思って見ても寂しいことは寂しい。どうも自分の身の周囲に空虚が出来て来るような気がしてならない。好いわ。この寂しさの中から作品が生れないにも限らない。
 帳場の男が勘定を持って来た。瀬戸の話に、湯治場や
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