る。根岸の家の居間ですら、騒がしい都会の趣はないのであるが、ここは又全く人間に遠ざかった境《さかい》で、その静寂の中《うち》にOndine《オンジイヌ》のような美人を見出すだろうと思った。それに純一は今|先《ま》ずFaune《フォオヌ》の笑声を聞かなくてはならないのである。
廊下に出迎えた女を見れば、根岸で見たしづ枝である。
「お待ちなさっていらっしゃいますから、どうぞこちらへ」ここで客の受取り渡しがある。前哨線が張ってあるようなものだと、純一は思った。そして何物が掩護《えんご》せられてあるのか。その神聖なる場所は、岡村という男との差向いの場所ではないか。根岸で嬉しく思ったことを、ここでは直ぐに厭に思う。地を易《か》うれば皆|然《しか》りである。
次の間に入って跪《ひざまず》いたしづ枝が、「小泉様がお出でになりました」と案内をして、徐《しず》かに隔ての障子を開けた。
「さあ、こっちへ這入《はい》り給え。奥さんがお待兼だ」声を掛けたのは岡村である。さすがに主客の行儀は好《い》い。手あぶりは別々に置かれて、茶と菓子とが出る。しかし奥さんの傍《そば》にある置炬燵《おきごたつ》は、又純一に不快な感じを起させた。
しづ枝に茶を入れ換えることを命じて置いて、奥さんは純一の顔をじっと見た。
「あなた、いつから来ていらっしゃいますの」
「まだ来たばっかりです。来ると直ぐあなたにお目に掛かったのです」
「柏屋には別品がいるでしょう」と、岡村が詞を挟んだ。
「どうですか。まだ来たばっかりですから、僕には分かりません」
「そんな事じゃあ困るじゃないか。我輩なんぞは宿屋に着いて第一に着眼するのはそれだね」
声と云い、詞と云い、だいぶ晩酌が利いているらしい。
「世間の人が皆岡村さんのようでは大変ですわね」奥さんは純一の顔を見て、庇護《ひご》するように云った。
岡村はなかなか黙っていない。「いや、奥さん。そうではありませんよ。文学者なんというものは、画かきよりは盛んな事を遣るのです」これを冒頭に、岡村の名を知っている、若い文学者の噂が出る。近頃そろそろ出来掛かった文芸界のBohemiens[#一つ目の「e」は「´」付き]《ボエミアン》が、岡村の交際している待合のお上だの、芸者だのの目に、いかに映じているかと云うことを聞くに過ぎない。次いで話は作品の上に及んで、「蒲団《ふとん》」がど
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