B但し慾気のないのが取柄とは、外《ほか》からの側面観で、同家のお辰姉《たつね》えさんの強意見《こわいけん》は、動《やや》ともすれば折檻賽《せっかんまが》いの手荒い仕打になるのである。まさか江戸時代の柳橋芸者の遺風を慕うのでもあるまいが、昨今松さんという絆纏着《はんてんき》の兄《に》いさんに熱くなって、お辰姉えさんの大目玉を喰《く》い、しょげ返っているとはお気の毒」
読んでしまって純一は覚えず微笑《ほほえ》んだ。縦《たと》い性欲の為めにもせよ、利を図ることを忘れることの出来る女であったと云うのが、殆ど嘉言善行《かげんぜんこう》を見聞きしたような慰めを、自分に与えてくれるのである。それは人形喰いという詞が、頗《すこぶ》る純一の自ら喜ぶ心を満足せしめるのである。若い心は弾力に富んでいる。どんな不愉快な事があって、自己を抑圧していても、聊《いささ》かの弛《ゆる》みが生ずるや否や、弾力は待ち構えていたようにそれを機として、無意識に元に帰そうとする。純一はおちゃらの記事を見て、少し気分を恢復《かいふく》した。
丁度そこへ女中が来て、福住から来た使《つかい》の口上を取り次いだ。お暇ならお遊びにいらっしゃいと、坂井さんが仰《おっし》ゃったと云うのである。純一は躊躇《ちゅうちょ》せずに、只今伺いますと云えと答えた。想うに純一は到底この招きに応ぜずにしまうことは出来なかったであろう。なぜと云うに、縦《よ》しや強《す》ねてことわって見たい情はあるとしても、卑怯《ひきょう》らしく退嬰《たいえい》の態度を見せることが、残念になるに極《き》まっているからである。しかし少しも逡巡《しゅんじゅん》することなしに、承諾の返事をさせたのは、色糸のおちゃらが坂井夫人の為めに緩頬《かんきょう》の労を取ったのだと云っても好《い》い。
純一は直ぐに福住へ行った。
女中に案内せられて、万翠楼《ばんすいろう》の三階の下を通り抜けて、奥の平家立ての座敷に近づくと、電燈が明るく障子に差して、内からは笑声《わらいごえ》が聞えている。Basse《バス》の嘶《いなな》くような笑声である。岡村だなと思うと同時に、このまま引き返してしまいたいような反感が本能的に起って来る。
箱根に於ける坂井夫人。これは純一の空想に度々|画《えが》き出《いだ》されたものであった。鬱蒼《うっそう》たる千年の老木の間に、温泉宿の離れ座敷が
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