、の、「煤烟《ばいえん》」がどうのと云うことになる。意外に文学通だと思って、純一が聞いて見ると、どれも読んではいないのであった。
純一にはこの席にいることが面白くない。しかしおとなしい性《たち》なので厭な顔をしてはならないと思って、努めて調子を合せている。その間にも純一はこう思った。世間に起る、新しい文芸に対する非難と云うものは、大抵この岡村のような人が言い広めるのだろう。作品を自分で読んで見て、かれこれ云うのではあるまい。そうして見れば、作品そのものが社会の排斥を招くのではなくて、クリク同士の攻撃的批評に、社会は雷同するのである。発売禁止の処分だけは、役人が訐《あば》いて申し立てるのだが、政府が自然主義とか個人主義とか云って、文芸に干渉を試みるようになるのは、確かに攻撃的批評の齎《もたら》した結果である。文士は自己の建築したものの下に、坑道を穿《うが》って、基礎を危《あやう》くしていると云っても好《い》い。蒲団や煤烟には、無論事実問題も伴っていた。しかし煤烟の種になっている事実こそは、稍|外間《がいかん》へ暴露した行動を見たのであるが、蒲団やその外の事実問題は大抵皆文士の間で起したので、所謂《いわゆる》六号文学のすっぱ抜きに根ざしているではないか。
しず枝が茶を入れ換えて、主客三人の茶碗に注いで置いて、次へ下がった跡で、奥さんが云った。
「小泉さん。あなた余りおとなしくしていらっしゃるから、岡村さんが勝手な事ばかし仰ゃいますわ。あなたの方でも、画かきの悪口でも言ってお上げなさると好《い》いわ」
「まあ僕は廃《よ》しましょう」純一は笑《わらい》を含んでこう云った。しかしこの席に這入ってから、動《やや》もすれば奥さんの自分を庇護してくれるのが、次第に不愉快に感ぜられて来た。それは他人あしらいにせられると思うからである。その反面には、奥さんが岡村に対して、遠慮することを須《もち》いない程の親しさを示しているという意味がある。極言すれば、夫婦気取りでいるとも云いたいのである。
岡村が純一に、何か箱根で書く積りかと問うたので、純一はありのままに、そんな企ては持っていないと云った。その時奥さんが「小泉さんなんぞはまだお若いのですから、そんなにお急ぎなさらなくても」と云ったが、これも庇護の詞になったのである。純一は稍反抗したいような気になって、「先生は何かおかきですか」と
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