フ上さんが吊銭を手に載せて、板縁《いたえん》に膝《ひざ》を衝いて待っていたのである。純一はそれに気が附いて、小さい銀貨に大きい銅貨の交ったのを慌てて受け取って、※[#「※」は「魚+王のなかに口が四つ」、第3水準1−94−55、194−16]皮《わにがわ》の蝦蟇口《がまぐち》にしまって店を出た。
 対岸に茂っている木々は、Carnaval《カルナヴァル》に仮装をして、脚ばかり出した群《むれ》のように、いつの間にか夕霧に包まれてしまって駅路《えきろ》の所々《ところどころ》にはぽつりぽつりと、水力電気の明りが附き始めた。
 純一はぼんやりして宿屋の方へ歩いている。或る分析し難い不愉快と、忘れていたのを急に思い出したような寂しさとが、頭を一ぱいに填《うず》めている。そしてその不愉快が嫉妬《しっと》ではないと云うことを、純一の意識は証明しようとするが、それがなかなかむずかしい。なぜと云うに、あの湯本細工の店で邂逅《かいこう》した時、もし坂井夫人が一人であったなら、この不愉快はあるまいと思うからである。純一の考はざっとこうである。とにかくあの岡村という大男の存在が、己《おれ》を刺戟《しげき》したには相違ない。画家の岡村と云えば、四条派の画《え》で名高い大家だということを、己も聞いている。どんな性質の人かは知らない。それを強いて知りたくもない。唯あの二人を並べて見たとき、なんだか夫婦のようだと思ったのが、慥かに己の感情を害した。そう思ったのは、決して僻目《ひがめ》ではない。知らぬ人の冷澹《れいたん》な目で見ても、同じように見えるに違いない。早い話が、あの店の上さんだって、若しあの二人に対して物を言うことになったら、旦那様奥様と云っただろう。己は何もあんな男を羨《うらや》みなんかしない。あの男の地位に身を置きたくはない。しかし癪《しゃく》に障る奴だ。こんな風に岡村を憎む念が起って、それと同時に坂井夫人に対しては暗黒な、しかも鋭い不平を感ずる。不義理な、約束に背いた女だとさえ云いたい。しかし夫人は己にどんな義理があるか。夫人の守らなくてはならない約束はどんな約束であるか。この問には答うべき詞が一つもないのである。どうしてもこの感じは嫉妬にまぎらわしいようである。
 そしてこの感じに寂しさが伴っている。厭な、厭な寂しさである。大村に別れた後《のち》に、東京で寂しいと思ったのなんぞは、ま
前へ 次へ
全141ページ中127ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング