ゥさば》らないものをと、楊枝入《ようじい》れやら、煙草箱やらを、二つ三つ選《え》り分けていた。
 その時何か話して笑いながら、店の前を通り掛かる男女の浴客《よくかく》があった。その女の笑声《わらいごえ》が耳馴れたように聞えたので、店の上さんが吊銭《つりせん》の勘定をしている間、おもちゃの独楽《こま》を手に取って眺めていた純一が、ふと頭を挙げて声の方角を見ると、端《はし》なく坂井夫人と目を見合せた。
 夫人は紺飛白《こんがすり》のお召縮緬《めしちりめん》の綿入れの上に、青磁色の鶉縮緬《うずらちりめん》に三つ紋を縫わせた羽織を襲《かさ》ねて、髪を銀杏返《いちょうがえ》しに結《い》って、真珠の根掛を掛け、黒鼈甲《くろべっこう》に蝶貝《ちょうかい》を入れた櫛《くし》を挿《さ》している。純一の目には唯しっとりとした、地味な、しかも媚《こび》のある姿が映ったのである。
 夫人の朗かな笑声は忽ち絶えて、discret《ジスクレエ》な愛敬笑《あいきょうわらい》が目に湛《たた》えられた。夫人は根岸で別れてからの時間の隔たりにも、東京とこの土地との空間の隔たりにも頓着《とんじゃく》しないらしい、極めて無造作な調子で云った。
「あら。来ていらっしゃるのね」
 純一は「ええ」と云った積りであったが、声はいかにも均衡を失った声で、しかも殆ど我耳にさえ聞えない位低かった。
 夫人は足を留めて連れの男を顧みた。四十を越した、巌乗な、肩の廉張《かどば》った男である。器械刈にした頭の、筋太な、とげとげしい髪には、霜降りのように白い処が交っていて、顔だけつやつやして血色が好《い》い。夫人はその男にこう言った。
「小泉さんと云う、文学をなさる方でございます」それから純一の方に向いて云った。「この方は画家の岡村さんですの。やはり福住に泊っていらっしゃいます。あなたなぜ福住へいらっしゃらなかったの。わたくしがそう申したじゃありませんか」
「つい名前を忘れたもんですから、柏屋にしました」
「まあ忘れっぽくていらっしゃることね。晩にお遊びにいらっしゃいましな」言い棄てて、夫人が歩き出すと、それまで二王立《におうだち》に立って、巨人が小人島《こびとじま》の人間を見るように、純一を見ていた岡村画伯は、「晩に来給え」と、谺響《こだま》のように同じ事を言って、夫人の跡に続いた。
 純一は暫く二人を見送っていた。その間店
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