曹浮[#一つ目と二つ目の「e」は「´」付き]《エレジアック》な要素があるようにしたって、それがなんの煩累《はんるい》をなそうぞと、弁護もして見る。要するに苦悩なるが故に芟《か》り除かんと欲し、甘き苦悩なるが故に割愛を難《かたん》ずるのである。
純一はこう云う声が自分を嘲《あざけ》るのを聞かずにはいられなかった。お前は東京からわざわざ箱根へ来たではないか。それがなんで柏屋から福住へ行《ゆ》くのを憚《はばか》るのだ。これは純一が為めには、随分残酷な声であった。
昨夜《ゆうべ》好く寐なかったからと、純一は必要のない嘘を女中に言って、午食《ごしょく》後に床を取らせて横になっているうちに、つい二時間ばかり寐てしまった。
目を醒まして見ると、一人の女中が火鉢に炭をついでいた。色の蒼白《あおじろ》い、美しい女である。今まで飯の給仕に来たり、昼寐の床を取りに来たりした女中とはまるで違って、着物も絹物を着ている。
「あの、新聞を御覧になりますなら、持って参りましょう」
俯向《うつむ》いた顔を挙げてちょいと見て、羞《はじ》を含んだような物の言いようをする。
「ああ。持って来ておくれ」
別に読みたいとも思わずに、唯女の問うに任せて答えたのである。
女はやはり俯向いて、なまめかしい態度をして立って行った。
純一が起きて火鉢の側《そば》へ据わった処へ、新聞を二三枚持って来たのは、今立って行った女ではなかった。身なりも悪く、大声で物を言って、なんの動機もなく、不遠慮に笑う、骨格の逞《たくま》しい、並の女中である。純一はこの家に並の女中の外に、特別な女中の置いてあるのは、特別な用をさせる為めであろうと察したが、それを穿鑿《せんさく》して見ようとも思わなかった。
純一は一枚の新聞を手に取って、文芸欄を一寸《ちょっと》見て、好くも読まずに下に置いた。大村の謂《い》うクリクに身を置いていない純一が為めには、目蓋《めおお》いを掛けたように一方に偏した評論は何の価値をも有せない。
それから夕食前に少し散歩をして来ようと思って、ぶらりと宿屋を出た。石に触れて水の激する早川の岸を歩む。片側町に、宿屋と軒を並べた※[#「※」は「金+旋」、第4水準2−91−33、193−5]匠《ひきものし》の店がある。売っているのは名物の湯本細工である。店の上《かみ》さんに、土産を買えと勧められて、何か嵩張《
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