ニ飲んで、インバネスを着たまま、足袋を穿《は》いたまま、被せた膝掛のいざらないように、そっと夜着の領を持って、ごろりと寝た。暫くは顔がほてって来て、ひどく動悸《どうき》がするようであったが、いつかぐっすり寐《ね》てしまった。
いくら寐たか分からない。何か物音がすると云うことを、夢現《ゆめうつつ》の間に覚えていた。それから話声が聞えた。しかも男と女の話声である。そう思うと同時に純一は目が覚めた。「お名前は」男の声である。それに女が返事をする。愛知県なんとか郡《ごおり》なんとか村|何《なん》の何兵衛《なにべえ》の妹|何《なに》と云っているのは、若い女の声である。男は降りて行った。
知らぬ女と二人で、この二階に寝るのだと思うと、純一は不思議なような心持がした。しかし間の悪いのと、気の毒なのとで、その方を見ずに、じっとしていた。暫くして女が「もしもし」と云った。慥《たし》かに自分に言ったのである。想うに女の方では自分の熟睡していた処へ来て、目を醒《さ》ました様子から、わざと女の方を見ずにいる様子まで、すっかり見て知っているのらしい。純一はなんと云って好《い》いか分からないので、黙っていた。女はこう云った。
「あの東京へ参りますのですが、上りの一番は何時に出ますでしょうか」
純一は強情に女の方を見ずに答えた。「そうですね。僕も知らないのですが、革包の中に旅行案内があるから、起きて見て上げましょうか」
女は短い笑声《わらいごえ》を漏した。「いいえ。それでは宜《よろ》しゅうございます。どうせ起して貰うように頼んで置きましたから」
こう云ったきり、女は黙ってしまった。純一はやはり強情に見ずにいる。女の寐附かれないらしい様子で、度々寝返りをする音が聞える。どんな女か見たいとも思ったが、今更見るのは弥《いよいよ》間が悪いので見ずにいる。そのうちに純一は又寐入った。
朝になって純一が目を醒ました時には、女はもういなかった。こんな家《うち》で手水《ちょうず》を使う気にもなられないので、急いで勘定をして、この家を飛び出した。角刈の男が革包を持って附いて来そうにするのをもことわった。この家との縁故を、少しも早く絶ちたいように思ったのである。
湯本の朝日橋まで三里の鉄道馬車に身を托して、靄《もや》をちぎって持て来るような朝風に、洗わずに出た顔を吹かせつつ、松林を穿《うが》ち、小田原
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