黷ヘ衝っ立ったままで、暫《しばら》く床を眺めていた。座布団なんと云う贅沢品《ぜいたくひん》は、この家では出さないので、帽をそこへ抛《な》げたまま、まだ据わらずにいたのである。布団は縞が分からない程よごれている。枕に巻いてある白木綿も、油垢《あぶらあか》で鼠色に染まっている。
純一はおそるおそる敷布団の上に据わって、時計を出して見た。もう殆ど十二時である。なんとも名状し難い不愉快が、若い、弾力に富んでいる心をさえ抑え附けようとする。このきたない家に泊るのが不愉快なのではない。境遇の懐子《ふところご》たる純一ではあるが、優柔なeffemine[#二つ目と三つ目の「e」は「´」付き]《エッフェミネエ》な人間にはなりたくないと、平生心掛けている。折々はことさらにSparta《スパルタ》風の生活をして見ようと思うこともある位である。しかしそれは自分の意志から出て、進んで困厄に就くのでなくては厭《いや》だ。他働的に、周囲から余儀なくせられて、窮屈な目に遭いたくはない。最初に旅宿をことわられてから、或る意地の悪い魔女の威力が自分の上に加わっているように、一歩一歩と不愉快な世界に陥って来たように思われる。それが厭でならない。
角刈の男が火鉢を持って上がって来た。藍色《あいいろ》の、嫌に光る釉《くすり》の掛かった陶器の円火鉢である。跡から十四五の襷《たすき》を掛けた女の子が、誂えた酒肴《さけさかな》を持って来た。徳利一本、猪口《ちょく》一つに、腥《なまぐさ》そうな青肴《あおざかな》の切身が一皿添えてある。女の子はこの品々を載せた盆を枕許《まくらもと》に置いて、珍らしそうに純一の蹙《しか》めた顔を覗いて見て、黙って降りて行った。男は懐から帳面を出して、矢立の筆を手に持って、「お名前を」と云った。純一は東京の宿所と名前とを言ったが、純の字が分からないので、とうとう自分で書いて遣った。
純一はどうして寝ようかと考えた。眠たくはないが、疲労と不愉快とで、頭の心《しん》が痛む。とにかく横にだけはなりたい。そこで袴《はかま》を脱いで、括り枕の上にそれを巻いた。それから駱駝の膝掛を二つに折って、その二枚の間に夜着の領《えり》の処を挟むようにして被せた。こうすれば顔や手だけは不潔な物に障らずに済む。
純一は革包を枕許に持って来て置いた。それから徳利を攫《つか》んで、燗酒《かんざけ》を一口ぐい
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