ノは残っているが、そんな事が相応に繁華な土地に、今あろうとは思われない。現に東京では、なんの故障もなく留めてくれたではないか。
 不思議だとは思うが、誰に問うて見ようもない。お伽話《とぎばなし》にある、魔女に姿を変えられた人のような気がしてならないのである。
 純一はとうとう巡査の派出所に行って、宿泊の世話をして貰いたいと云った。巡査は四十ばかりの、flegmatique《フレグマチック》な、寝惚《ねぼ》けたような、口数を利かない男で、純一が不平らしく宿屋に拒絶せられた話をするのを聞いても、当り前だとも不当だとも云わない。縁《ふち》の焦げた火鉢に、股火《またび》をして当っていたのが、不精らしく椅子を離れて、机の上に置いてあった角燈を持って、「そんならこっちへお出でなさい」と云って、先きに立った。
 巡査が純一を連れて行って立ち留まったのは、これまで純一が叩いたような、新築の宿屋と違って、壁も柱も煤《すす》で真っ黒に染まった家の門《かど》であった。もう締めてある戸を開けさせて、巡査が何か掛け合った。話は直ぐに纏《まと》まったらしい。中から頭を角刈にして、布子の下に湯帷子《ゆかた》を重ねて着た男が出て来て、純一を迎え入れた。巡査は角燈を光らせて帰って行った。
 純一は真っ黒な、狭い梯子《はしご》を踏んで、二階に上ぼった。上《のぼ》り口《ぐち》に手摩《てす》りが繞《めぐ》らしてある。二階は縁側のない、十五六畳敷の広間である。締め切ってある雨戸の外《ほか》には、建具が無い。角刈の男は、行燈《あんどん》の中に石油ランプを嵌《は》め込んだのを提げて案内して来て、それを古畳の上に置いて、純一の前に膝を衝《つ》いた。
「直ぐにお休みなさいますか。何か御用は」
 純一は唯とにかく屋根の下には這入られたと思っただけで、何を考える暇もなく、茫然としていたが、その屋根の下に這入られた喜《よろこび》を感ずると共に、報酬的に何か言い付けた方が好かろうと、問われた瞬間に思い付いた。
「何か肴《さかな》があるなら酒を一本附けて来ておくれ。飯は済んだのだ」
「煮肴がございます」
「それで好《い》い」
 角刈の男は、形ばかりの床の間の傍《そば》の押入れを開けた。この二階にも床の間だけはあるのである。そして布団と夜着と括《くく》り枕《まくら》とを出して、そこへ床を展《の》べて置いて、降りて行った。
 純
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