tい掛かる。それを余所に見て、余りに気軽なマリイ・ルイイズは、閨《ねや》に入って夫に戯れ掛かる。陽に拒み、陰に促して、女は自分の寝支度を夫に手伝わせる。半ば呑《の》み半ば吐く対話と共に、女の身の皮は笋《たかんな》を剥ぐ如くに、一枚々々剥がれる。所詮東京の劇場などで演ぜられる場では無い。女の紙入れが出る。「お前は生涯|己《おれ》の写真を持ち廻るのか」「ええ。生涯持ち廻ってよ」「ちょっと見たいな」「いじっちゃあ、いや」「なぜ」「どうしてもいや」「そう云われると見たくなるなあ」「直ぐ返すのなら」「返さなかったら、どうする」「生涯あなたに物を言わないわ」「ちと覚束《おぼつか》ないな」「わたし迷信があるの。それを見られると」「変だぞ。変だぞ。その熱心に隠すのが怪しい」「開けないで下さいよ」「開ける。間男の写真を拝見しなくては」こんな対話の末、紙入れは開かれる。大金《たいきん》が出る。蒸暑い恋の詞が、氷のように冷たい嫌疑の詞になる。純一は目の痛むのも忘れて、Bresil[#「e」は「´」付き]《ブレジル》へ遣《や》られる青年を気の毒がって、マリイ・ルイイズが白状する処まで、一息に読んでしまった。そして本を革包に投げ込んで、馬鹿にせられたような心持になっていた。
間もなく汽車が国府津に着いた。純一はどこも不案内であるから、余り遅くならないうちに泊って、あすの朝箱根へ行《い》こうと思った。革包と膝掛とを自分に持って、ぶらりと停車場を出て見ると、図抜けて大きい松の向うに、静かな夜の海が横たわっている。
宿屋はまだ皆|開《あ》いていて、燈火《ともしび》の影に女中の立ち働いているのが見える。手近な一軒につと這入って、留めてくれと云った。甲斐々々《かいがい》しい支度をした、小綺麗な女中が、忙《いそが》しそうな足を留めて、玄関に立ちはたがって、純一を頭のてっぺんから足の爪尖《つまさき》まで見卸して、「どこも開《あ》いておりません、お気の毒様」と云ったきり、くるりと背中を向けて引っ込んでしまった。
次の宿屋に行《ゆ》く。同じようにことわられる。三軒目も四軒目も同じ事である。インバネスを着て、革包と膝掛とを提げた体裁は、余り立派ではないに違いない。しかし宿屋で気味を悪がって留めない程不都合な身なりだと云うでもあるまい。一人旅の客を留めないとか云う話が、いつどこで聞いたともなく、ぼんやり記憶
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