ない語《ことば》なのである。極めて平易に書いた、極めて浅薄な、廉価なる喝采《かっさい》を俗人の読者に求めているらしい。タヴォオテの、あの巻頭の短篇を読んで見れば、多少隔靴の憾《うらみ》はあるとしても、前後の文意で、ニヒト・ドホがまるで分からない筈は無い。それが分かっているとすれば、この語《ことば》の説明に必然伴って来る具体的の例が、どんなものだということも分かっていなくてはならない。実際少しでも独逸が読めるとすれば、その位な事は分かっている筈である。それが分かっていて、なんの下心もなく、こんな質問をすることが出来る程、茂子さんはinnocente《アンノサント》なのだろうか。それでは、篁村翁《こうそんおう》にでも言わせれば、余りに「紫の矢絣《やがすり》過ぎている」それであの人のいつも作るような、殆ど暴露的な歌が作られようか。今の十六の娘にそんなのがあろうか。それともと考え掛けて、大村はそれから先きを考えることを憚《はばか》ったと云うのである。
 茂子さんはそれきり来なくなった。大村が云うには、二人は素《も》と交互の好奇心から接近して見たのであるが、先方でもこっちでも、求むる所のものを得なかった。そこで恩もなく怨みもなく別れてしまった。勿論《もちろん》先方が近づいて来るにも遠ざかって行《ゆ》くにも、主動的にはなっていたが、こっちにも好奇心はあったから、あらわに動かなかった中《うち》に、迎合し誘導した責は免れないと、大村は笑いながら云った。
 大村がこう云って、詞を切ったとき、二人は往来から引っ込めて立てた門のある、世尊院の前を歩いていた。寒そうな振《ふり》もせずに、一群の子供が、門前の空地で、鬼ごっこをしている。
「一体どんな性質の女ですか」と、突然純一が問うた。
「そうさね。歌を見ると、情に任せて動いているようで、逢って見ると、なかなか駈引のある女だ」
「妙ですね。どんな内の娘ですか」
「僕が問いもせず、向うが話しもしなかったのだが、後《のち》になって外《ほか》から聞けば、母親は京橋辺に住まって、吉田流の按摩《あんま》の看板を出していると云うことだった」
「なんだか少し気味が悪いようじゃありませんか」
「さあ。僕もそれを聞いたときは、不思議なようにも思い、又君の云う通り、気味の悪いようにも思ったね。それからそう思ってあの女の挙動を、記憶の中から喚び起して見ると、年は
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