しょう」
「どうだかねえ」
二人は又顔を見合わせて笑った。
純一の笑う顔を見る度に、なんと云う可哀い目附きをする男だろうと、大村は思う。それと同時に、この時ふと同性の愛ということが頭に浮んだ。人の心には底の知れない暗黒の堺《さかい》がある。不断一段自分より上のものにばかり交るのを喜んでいる自分が、ふいとこの青年に逢ってから、余所《よそ》の交《まじわり》を疎んじて、ここへばかり来る。不断講釈めいた談話を尤《もっと》も嫌って、そう云う談話の聞き手を求めることは屑《いさぎよし》としない自分が、この青年の為めには饒舌《じょうぜつ》して忌むことを知らない。自分はhomosexuel《オモセクシュエル》ではない積りだが、尋常の人間にも、心のどこかにそんな萌芽《ほうが》が潜んでいるのではあるまいかということが、一寸《ちょっと》頭に浮んだ。
暫《しばら》くして大村は突然立ち上がった。「ああ。もう行《い》こう。君はこれから何をするのだ」
「なんにも当てがないのです。とにかくそこいらまで送って行《い》きましょう」
午後二時にはまだなっていなかった。大学の制服を着ている大村と一しょに、純一は初音町の下宿を出て、団子坂の通へ曲った。
門《かど》ごとに立てた竹に松の枝を結び添えて、横に一筋の注連縄《しめなわ》が引いてある。酒屋や青物屋の賑《にぎ》やかな店に交って、商売柄でか、綺麗《きれい》に障子を張った表具屋の、ひっそりした家もある。どれを見ても、年の改まる用意に、幾らかの潤飾を加えて、店に立ち働いている人さえ、常に無い活気を帯びている。
この町の北側に、間口の狭い古道具屋が一軒ある。谷中は寺の多い処だからでもあろうか、朱漆《しゅうるし》の所々に残っている木魚《もくぎょ》や、胡粉《ごふん》の剥《は》げた木像が、古金《ふるかね》と数《かず》の揃《そろ》わない茶碗小皿との間に並べてある。天井からは鰐口《わにぐち》や磬《けい》が枯れた釣荵《つりしのぶ》と一しょに下がっている。
純一はいつも通る度に、ちょいとこの店を覗いて過ぎる。掘り出し物をしようとして、骨董店《こっとうてん》の前に足を留める、老人の心持と違うことは云うまでもない。純一の覗くのは、或る一種の好奇心である。国の土蔵の一つに、がらくた道具ばかり這入《はい》っているのがある。何に使ったものか、見慣れない器、闕《か》け損じて何
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