み易い。的を立てるとなると、sport《スポルト》になる。sport《スポルト》になると、直接にもせよ間接にもせよ競争が生ずる。勝負が生ずる。畢竟《ひっきょう》倦まないと云うのは、勝とう勝とうと思う励みのあることを言うのであろう。ところが個人毎に幾らかずつの相違はあるとしても、芸術家には先ずこの争う心が少い。自分の遣《や》っている芸術の上でからが、縦《たと》え形式の所謂競争には加わっていても、製作をする時はそれを忘れている位である。Paul Heyse《パウル ハイゼ》の短編小説に、競争仲間の彫像を夜忍び込んで打ち壊すことが書いてあるが、あれは性格の上の憎悪を土台にして、その上に恋の遺恨をさえ含ませてある。要するに芸術家らしい芸術家は、恐らくはsport《スポルト》に熱中することがむずかしかろうと云うのである。
 純一は思い当る所があるらしく、こう云った。「僕は芸術家がる訳ではないのですが、どうも勝負事には熱心になられませんね」
「もう今に歌がるたの季節になるが、それでは駄目だね」
「全く駄目です。僕はいつも甘んじて読み役に廻されるのです」と、純一は笑いながら云った。
「そうさね。同じ詞で始まる歌が、百首のうちに幾つあるということを諳《そら》んじてしまって、初五文字《しょごもじ》を読んでしまわないうちに、どれでも好《い》いように、二三枚のかるたを押えてしまうことが出来なくては、上手下手の評に上《のぼ》ることが出来ない。もうあんな風になってしまえば、歌のせんは無い。子供のするいろはがるたも同じ事だ。もっと極端に云えばA《ア》の札B《ベ》の札というようなものを二三枚ずつ蒔《ま》いて置いて、A《ア》と読んだ時、蒔いてあるA《ア》の札を残らず撈《さら》ってしまえば好いわけになる。若し歌がるたに価値があるとすれば、それは百首の歌を諳んじただけで、同じ詞で始まる歌が幾つあるかなんと云う、器械的な穿鑿《せんさく》をしない間の楽みに限られているだろう。僕なんぞもそんな事で記憶に負担をさせるよりは、何かもっと気の利いた事を覚えたいね」
「一体あんな事を遣ると、なんにも分からない、音《おん》の清濁も知らず、詞の意味も知らないで読んだり取ったりしている、本当のroutiniers《ルチニエエ》に愚弄《ぐろう》せられるのが厭《いや》です」
「それでは君にはまだ幾分の争気がある」
「若いので
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