る尺度を、まだ具体的に手に取って見たことが無いのである。
忽ち襖《ふすま》の外でことこと音をさせるのが聞えた。植長の婆あさんが気を利かせて、二人の午飯《ひるめし》を用意して、持ち運んでいたのである。
二十一
食事をしまって茶を飲みながら、隔ての無い青年同士が、友情の楽しさを緘黙《かんもく》の中《うち》に味わっていた。何か言わなくてはならないと思って、言いたくない事を言う位は、所謂附合いの人の心を縛る縄としては、最も緩いものである。その縄にも縛られずに平気で黙りたい間黙っていることは、或る年齢を過ぎては容易に出来なくなる。大村と純一とはまだそれが出来た。
純一が炭斗《すみとり》を引き寄せて炭をついでいる間に、大村は便所に立った。その跡で純一の目は、急に青い鳥の脚本の上に注がれた。Charpentier et Fasquelle《シャルパンチエエ エエ ファスケル》版の仮綴《かりとじ》の青表紙である。忙《せ》わしい手は、紙切小刀で切った、ざら附いた、出入りのあるペエジを翻した。そして捜し出された小さい名刺は、引き裂かれるところであったが、堅靭《けんじん》なる紙が抗抵したので、揉《も》みくちゃにせられて袂《たもと》に入れられた。
純一は証拠を湮滅《いんめつ》[#底本はルビを「えんめつ」と誤植]させた犯罪者の感じる満足のような満足を感じた。
便所から出て来た大村は、「もうそろそろお暇《いとま》をしようか」と云って、中腰になって火鉢に手を翳《かざ》した。
「旅行の準備でもあるのですか」
「何があるものか」
「そんなら、まあ、好《い》いじゃありませんか」
「君も寂しがる性《たち》だね」と云って、大村は胡座《あぐら》を掻いて、又紙巻を吸い附けた。「寂しがらない奴は、神経の鈍い奴か、そうでなければ、神経をぼかして世を渡っている奴だ。酒。骨牌《かるた》。女。Haschisch《ハッシッシュ》」
二人は顔を見合せて笑った。
それから官能的受用で精神をぼかしているなんということは、精神的自殺だが、神経の異様に興奮したり、異様に抑圧せられたりして、体をどうしたら好《い》いか分らないようなこともある。そう云う時はどうしたら好いだろうと、純一が問うた。大村の説では、一番健全なのはスエエデン式の体操か何かだろうが、演習の仮設敵のように、向うに的を立てなくては、倦《う》
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