めて見れば、内に安心立命を得て、外に十分の勢力を施すというより外有るまいね。昨今はそいつを漢学の道徳で行《い》こうなんという連中があるが、それなら修身斉家治国平天下で、解決は直ぐに附く。そこへ超越的な方面が加わって来ても、老荘を始として、仏教渡来以後の朱子学やら陽明学というようなものになるに過ぎない。西洋で言って見ると希臘《ギリシア》の倫理がPlaton《プラトン》あたりから超越的になって、基督《クリスト》教がその方面を極力開拓した。彼岸に立脚して、馬鹿に神々《こうごう》しくなってしまって、此岸《しがん》がお留守になった。樵夫《きこり》の家に飼ってある青い鳥は顧みられなくなって、余所に青い鳥を求めることになったのだね。僕の考では、仏教の遁世《とんせい》も基督教の遁世も同じ事になるのだ。さてこれからの思想の発展というものは、僕は西洋にしか無いと思う。Renaissance《ルネッサンス》という奴が東洋には無いね。あれが家の内の青い鳥をも見させてくれた。大胆な航海者が現れて、本当の世界の地図が出来る。天文も本当に分かる。科学が開ける。芸術の花が咲く。器械が次第に精巧になって、世界の総てが仏者の謂う器世界《きせいかい》ばかりになってしまった。殖産と資本とがあらゆる勢力を吸収してしまって、今度は彼岸がお留守になったね。その時ふいと目が醒めて、彼岸を覗いて見ようとしたのが、ショペンハウエルという変人だ。彼岸を望んで、此岸を顧みて見ると、万有の根本は盲目の意志になってしまう。それが生を肯定することの出来ない厭世《えんせい》主義だね。そこへニイチェが出て一転語を下した。なる程生というものは苦艱《くげん》を離れない。しかしそれを避けて逃げるのは卑怯《ひきょう》だ。苦艱|籠《ご》めに生を領略する工夫があるというのだ。What《ホワット》の問題をhow《ハウ》にしたのだね。どうにかしてこの生を有《あり》のままに領略しなくてはならない。ルソオのように、自然に帰れなどと云ったって、太古と現在との中間の記憶は有力な事実だから、それを抹殺《まっさつ》してしまうことは出来ない。日本で※[#「※」は「くさかんむり+言+爰」、第3水準1−91−40、163−9]園《かんえん》派の漢学や、契冲《けいちゅう》、真淵《まぶち》以下の国学を、ルネッサンスだなんと云うが、あれは唯復古で、再生ではない。そんなら
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