と云って、過去の記憶の美しい夢の国に魂を馳《は》せて、Romantiker《ロマンチケル》の青い花にあこがれたって駄目だ。Tolstoi《トルストイ》がえらくたって、あれも遁世的だ。所詮|覿面《てきめん》に日常生活に打《ぶ》っ附かって行《い》かなくては行けない。この打っ附かって行く心持がDionysos《ジオニソス》的だ。そうして行きながら、日常生活に没頭していながら、精神の自由を牢《かた》く守って、一歩も仮借しない処がApollon《アポルロン》的だ。どうせこう云う工夫で、生を領略しようとなれば、個人主義には相違ないね。個人主義は個人主義だが、ここに君の云う利己主義と利他主義との岐路がある。利己主義の側はニイチェの悪い一面が代表している。例の権威を求める意志だ。人を倒して自分が大きくなるという思想だ。人と人とがお互にそいつを遣り合えば、無政府主義になる。そんなのを個人主義だとすれば、個人主義の悪いのは論を須《ま》たない。利他的個人主義はそうではない。我という城廓を堅く守って、一歩も仮借しないでいて、人生のあらゆる事物を領略する。君には忠義を尽す。しかし国民としての我は、昔何もかもごちゃごちゃにしていた時代の所謂《いわゆる》臣妾《しんしょう》ではない。親には孝行を尽す。しかし人の子としての我は、昔子を売ることも殺すことも出来た時代の奴隷ではない。忠義も孝行も、我の領略し得た人生の価値に過ぎない。日常の生活一切も、我の領略して行《ゆ》く人生の価値である。そんならその我というものを棄てることが出来るか。犠牲にすることが出来るか。それも慥《たしか》に出来る。恋愛生活の最大の肯定が情死になるように、忠義生活の最大の肯定が戦死にもなる。生が万有を領略してしまえば、個人は死ぬる。個人主義が万有主義になる。遁世主義で生を否定して死ぬるのとは違う。どうだろう、君、こう云う議論は」大村は再び歯を露わして笑った。
熱心に聞いていた純一が云った。「なる程そんなものでしょうかね。僕も跡で好く考えて見なくては分からないのですが、そんな工合に連絡を附けて見れば、切れ切れになっている近世の思想に、綜合点が出来て来るように思われますね。こないだなんとか云う博士《はくし》の説だと云うので、こんな事が書いてありましたっけ。個人主義は西洋の思想で、個人主義では自己を犠牲にすることは出来ない。東洋では個
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