es.《ア ペエヌ チルチル アチル ツウルネエ ル ジアマン カン シャンジュマン スデン エエ プロジジオヨオ ソペエル アン ツウト ショオズ》ここの処が只のと書き[#「と書き」に傍点]だとは思われない程、美しく書いてありますね。僕は国の中学にいた頃、友達にさそわれて、だいぶ学問のある坊さんの所へちょいちょい行ったことがあります。丁度その坊さんが維摩経《ゆいまきょう》の講釈をしていました。みすぼらしい維摩居士の方丈の室が荘厳世界《そうごんせかい》に変る処が、こんな工合ですね。しかし僕はもうずっと先きの方まで読んでいますが、この脚本の全体の帰趣《きしゅ》というようなものには、どうも同情が出来ないのです。麺包《パン》と水とで生きていて、クリスマスが来ても、子供達に樅《もみ》の枝に蝋燭《ろうそく》を点して遣ることも出来ないような木樵《きこ》りの棲《す》み家《か》にも、幸福の青い鳥は籠《かご》の内にいる。その青い鳥を余所《よそ》に求めて、Tyltyl, Mytyl《チルチル ミチル》のきょうだいの子は記念の国、夜の宮殿、未来の国とさまよい歩くのですね。そしてその未来の国で、これから先きに生れて来る子供が、何をしているかと思うと、精巧な器械を工夫している。翼なしに飛ぶ手段を工夫している。あらゆる病を直す薬方を工夫している。死に打ち克《か》つ法を工夫している。ひどく物質的な事が多いのですね。そんな事で人間が幸福になられるでしょうか。僕にはなんだか、ひどく矛盾しているように思われてなりません。十九《じゅうく》世紀は自然科学の時代で、物質的の開化を齎《もたら》した。我々はそれに満足することが出来ないで、我々の触角を外界から内界に向け換えたでしょう。それに未来の子供が、いろんな器械を持って来てくれたり、西瓜《すいか》のような大きさの林檎《りんご》を持って来てくれたりしたって、それがどうなるでしょう。おう。それから鼻糞《はなくそ》をほじくっている子供がいましたっけ。大かた鴎村さんが大発見の追加を出すだろうと、僕は思ったのです。あの子供が鼻糞をほじくりながら、何を工夫しているかと思うと、太陽が消えてしまった跡で、世界を煖《ぬく》める火を工夫しているというのですね。そんな物は、現在の幸福が無くなった先きの入れ合せに過ぎないじゃありませんか。そりゃあ、なる程、人のまだ考えたことのない考
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