言い出す機会がない。持って来た紹介状も、さっきから見れば、封が切らずにある。紹介状も見ず、用事も問わずに、知らない人に行きなり飯を食わせるというような事は、話にも聞いたことがない。ひどい勝手の違いようだと思っているのである。ところが、大石の考《かんがえ》は頗る単純である。純一が自分を崇拝している青年の一人《いちにん》だということは、顔の表情で知れている。田中が紹介状を書いたのを見ると、何処《どこ》から来たということも知れている。Y県出身の崇拝者。目前で大飯を食っている純一のattribute《アトリビュウト》はこれで尽きている。多言を須《もち》いないと思っているのである。
 飯が済んで、女中が膳を持って降りた。その時大石はついと立って、戸棚から羽織を出して着ながらこう云った。
「僕は今から新聞社に行くから、又遊びに来給え。夜は行《い》けないよ」
 机の上の書類を取って懐《ふところ》に入れる。長押《なげし》から中折れの帽を取って被る。転瞬倏忽《てんしゅんしゅくこつ》の間に梯子段を降りるのである。純一は呆《あき》れて帽を攫《つか》んで後《あと》に続いた。

     参

 初めて大石を尋ねた翌日の事である。純一は居所を極めようと思って宿屋を出た。
 袖浦館を見てから、下宿屋というものが厭になっているので、どこか静かな処《ところ》で小さい家を借りようと思うのである。前日には大石に袖浦館の前で別れて、上野へ行って文部省の展覧会を見て帰った。その時上野がなんとなく気に入ったので、きょうは新橋から真直に上野へ来た。
 博物館の門に突き当って、根岸の方へ行《ゆ》こうか、きのう通った谷中の方へ行こうかと暫《しばら》く考えたが、大石を尋ねるに便利な処をと思っているので、足が自然に谷中の方へ向いた。美術学校の角を曲って、桜木町から天王寺の墓地へ出た。
 今日も風のない好《い》い天気である。銀杏《いちょう》の落葉の散らばっている敷石を踏んで、大小種々な墓石に掘ってある、知らぬ人の名を読みながら、ぶらぶらと初音町《はつねちょう》に出た。
 人通りの少い広々とした町に、生垣を結い繞《めぐ》らした小さい家の並んでいる処がある。その中の一軒の、自然木《しぜんぼく》の門柱《もんばしら》に取り附けた柴折戸《しおりど》に、貸家の札が張ってあるのが目に附いた。
 純一がその門の前に立ち留まって、垣の内
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