を覗いていると、隣の植木鉢を沢山|入口《いりくち》に並べてある家から、白髪《しらが》の婆あさんが出て来て話をし掛けた。聞けば貸家になっている家は、この婆あさんの亭主で、植木屋をしていた爺いさんが、倅《せがれ》に娵《よめ》を取って家を譲るとき、新しく立てて這入《はい》った隠居所なのである。爺いさんは四年前に、倅が戦争に行っている留守に、七十幾つとかで亡くなった。それから貸家にして、油画をかく人に借《か》していたが、先月その人が京都へ越して行って、明家《あきや》になったというのである。画家は一人ものであった。食事は植木屋から運んだ。総てこの家から上がる銭は婆あさんのものになるので、若《も》し一人もののお客が附いたら、やはり前通りに食事の世話をしても好《い》いと云っている。
婆あさんの質樸《しつぼく》で、身綺麗《みぎれい》にしているのが、純一にはひどく気に入った。婆あさんの方でも、純一の大人しそうな、品の好《い》いのが、一目見て気に入ったので、「お友達があって、御一しょにお住まいになるなら、それでも宜しゅうございますが、出来ることならあなたのようなお方に、お一人で住まって戴《いただ》きたいのでございます」と云った。
「まあ、とにかく御覧なすって下さい」と云って、婆あさんは柴折戸を開けた。純一は国のお祖母《ば》あ様の腰が曲って耳の遠いのを思い出して、こんな巌乗《がんじょう》な年寄もあるものかと思いながら、一しょに這入って見た。婆あさんは建ててから十年になると云うが、住み荒したと云うような処は少しもない。この家に手入をして綺麗にするのを、婆あさんは為事にしていると云っているが、いかにもそうらしく思われる。一番|好《い》い部屋は四畳半で、飛石の曲り角に蹲《つくば》いの手水鉢《ちょうずばち》が据えてある。茶道口《ちゃどうぐち》のような西側の戸の外は、鏡のように拭き入れた廊下で、六畳の間に続けてある。それに勝手が附いている。
純一は、これまで、茶室というと陰気な、厭な感じが伴うように思っていた。国の家には、旧藩時代に殿様がお出《いで》になったという茶席がある。寒くなってからも蚊がいて、気の詰まるような処であった。それにこの家は茶掛かった拵《こしら》えでありながら、いかにも晴晴《はればれ》している。蹂口《にじりぐち》のような戸口が南向になっていて、東の窓の外は狭い庭を隔てて、直ぐ
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