る、製作の出来る人間はいないと云うのかね」
「そりゃあ、そんな神のようなものが有るとも無いとも、誰《たれ》も断言はしていません。しかし批評の対象は神のようなものではありません。人間です」
「人間は皆地獄を買うのかね」
「先生。僕を冷かしては行《い》けません」
「冷かしなんぞはしない」大石は睫毛《まつげ》をも動かさずに、ゆったり胡坐をかいている。
 帳場のぼんぼん時計が、前触《まえぶれ》に鍋《なべ》に物の焦げ附くような音をさせて、大業《おおぎょう》に打ち出した。留所《とめど》もなく打っている。十二時である。
 近藤は気の附いたような様子をして云った。
「お邪魔をいたしました。又伺います」
「さようなら。こっちのお客が待たせてあるから、お見送りはしませんよ」
「どう致しまして」近藤は席を立った。
 大石は暫くじっと純一の顔を見ていて、気色《けしき》を柔げて詞を掛けた。
「君ひどく待たせたねえ。飯前じゃないか」
「まだ食べたくありません」
「何時に朝飯を食ったのだい」
「六時半です」
「なんだ。君のような壮《さか》んな青年が六時半に朝飯を食って、午《ひる》が来たのに食べたくないということがあるものか。嘘《うそ》だろう」
 語気が頗る鋭い。純一は一寸不意に出られてまごついたが、主人の顔を仰いでいる目は逸《そら》さなかった。純一の心の中《うち》では、こういう人の前で世間並の空辞儀《からじぎ》をしたのは悪かったと思う悔やら、その位な事をしたからと云って、行《い》きなり叱ってくれなくても好さそうなものだと思う不平やらが籠《こ》み合って、それでまごついたのである。
「僕が悪うございました。食べたくないと云ったのは嘘です」
「はははは。君は素直で好《い》い。ここの内の飯は旨《うま》くはないが、御馳走しよう。その代り一人で食うのだよ。僕はまだ朝飯から二時間立たないのだから」
 誂《あつら》えた飯は直ぐに来た。純一が初《はじめ》に懲りて、遠慮なしに食うのを、大石は面白そうに見て、煙草を呑《の》んでいる。純一は食いながらこんな事を思うのである。大石という人は変っているだろうとは思ったが、随分勝手の違いようがひどい。さっきの客が帰った迹《あと》で、黙っていてくれれば、こっちから用事を言い出すのであった。飯を食わせる程なら、何の用事があって来たかと問うても好さそうなものだに黙っていられるから、
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