始めて少し内容のあるような事を言った。それに批評家が何と云っていると云うことを、向うに話させれば、勢《いきおい》その通だとか、そうではないとか云わなくてはならなくなる。今来た少年の、無垢《むく》の自然をそのままのような目附を見て、ふいと※[#「※」は「革+疆のつくり」、第3水準1−93−81、17−12]《たづな》が緩んだなと、大石は気が附いたが、既に遅かった。
「批評家は大体こう云うのです。先生のお書になるものは真の告白だ。ああ云う告白をなさる厳粛な態度に服する。Aurelius Augustinus《オオレリアス オオガスチヌス》だとか、Jean Jaques Rousseau《ジャン ジャック ルソオ》だとか云うような、昔の人の取った態度のようだと云うのです」
「難有《ありがた》いわけだね。僕は今の先生方の論文も面倒だから読まないが、昔の人の書いたものも面倒だから読まない。しかし聖Augustinus《オオガスチヌス》は若い時に乱行を遣って、基督《クリスト》教に這入ってから、態度を一変してしまって、fanatic《ファナチック》な坊さんになって懺悔《ざんげ》をしたのだそうだ。Rousseau《ルソオ》は妻と名の附かない女と一しょにいて、子が出来たところで、育て方に困って、孤児院へ入れたりなんぞしたことを懺悔したが、生れつき馬鹿に堅い男で、伊太利《イタリイ》の公使館にいた時、すばらしい別品《べっぴん》の処へ連れて行《い》かれたのに、顫え上ってどうもすることが出来なかったというじゃあないか。僕の書いている人物はだらしのない事を遣っている。地獄を買っている。あれがそんなにえらいと云うのかね」
「ええ。それがえらいと云うのです。地獄はみんなが買います。地獄を買っていて、己《おれ》は地獄を買っていると自省する態度が、厳粛だと云うのです」
「それじゃあ地獄を買わない奴は、厳粛な態度は取れないと云うのかね」
「そりゃあ地獄も買うことの出来ないような偏屈な奴もありましょう。買っていても、矯飾して知らない振をしている奴もありましょう。そういう奴は内生活が貧弱です。そんな奴には芸術の趣味なんかは分かりません。小説なんぞは書けません。懺悔の為様がない。告白をする内容がない。厳粛な態度の取りようがないと云うのです」
「ふん。それじゃあ偏屈でもなくって、矯飾もしないで、芸術の趣味の分か
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