#一つ目の「e」は「`」付き]《セエヌ》が改まった。場所の変化も夢では自由である。純一は水が踵《かかと》に迫って来るのを感ずると共に、傍《そば》に立っている大きな木に攀《よ》じ登った。何の木か純一には分からないが広い緑色の葉の茂った木である。登り登って、扉のように開いている枝に手が届いた。身をその枝の上に撥《は》ね上げて見ると、同じ枝の上に、自分より先きに避難している人がある。所々に白い反射のある緑の葉に埋《うず》もれて、長い髪も乱れ、袂も裾も乱れた女がいるのである。
 黄いろい水がもう一面に漲《みなぎ》って来た。その中に、この一本の木が離れ小島のように抜き出《い》でている。滅びた世界に、新《あらた》に生れて来たAdam《アダム》とEva《エヴァ》とのように梢《こずえ》を掴む片手に身を支えながら、二人は遠慮なく近寄った。
 純一は相触れんとするまでに迫まり近づいた、知らぬ女の顔の、忽ちおちゃらになったのを、少しも不思議とは思わない。馴馴しい表情と切れ切れの詞《ことば》とが交わされるうちに、女はいつか坂井の奥さんになっている。純一が危《あやう》い体を支えていようとする努力と、僅かに二人の間に存している距離を縮めようと思う慾望とに悩まされているうちに、女の顔はいつかお雪さんになっている。
 純一がはっと思って、半醒覚《はんせいかく》の状態に復《かえ》ったのはこの一刹那《いっせつな》の事であった。誰《たれ》やらの書いたものに、人は夢の中ではどんな禽獣《きんじゅう》のような行いをも敢《あえ》てして恬然《てんぜん》としているもので、それは道徳という約束の世間にまだ生じていない太古に復るAtavisme《アタヴィスム》だと云うことがあった。これは随分思い切った推理である。しかしその是非はとにかく措《お》いて、純一はそんなAtavisme《アタヴィスム》には陥らなかった。或は夢が醒め際になっていて、醒めた意識の幾分が働いていたのかも知れない。
 半醒覚の純一が体には慾望の火が燃えていた。そして踏み脱いでいた布団を、又|領元《えりもと》まで引き寄せて、腮《あご》を埋《うず》めるようにして、又寐入る刹那には、朧《おぼろ》げな意識の上に、見果てぬ夢の名残を惜む情が漂っていた。しかしそれからは、短い深い眠《ねむり》に入《い》ったらしい。
 純一が写象は、人間の思量の無碍《むげ》の速度を以
前へ 次へ
全141ページ中100ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング