は、坂井の奥さんが箱根へ行《ゆ》く日だということであった。誘われた通りに、跡から行こうと、はっきり考えているのではない。それが何より先きに思い出されたのは、奥さんに軽い程度のsuggestion《サジェスション》を受けているからである。一体夫人の言語や挙動にはsuggestif《サジェスシイフ》な処があって、夫人は半ば無意識にそれを利用して、寧《むし》ろ悪用して、人の意志を左右しようとする傾きがある。若し催眠術者になったら、大いに成功する人かも知れない。
坂井の奥さんが箱根へ行《ゆ》く日だと思った跡で、純一の写象は暗中の飛躍をして、妙な記憶を喚び起した。それは昨夜《ゆうべ》夜明け近くなって見た夢の事である。その夢を見掛けて、ちょいと驚いて目を醒まして、直ぐに又|寐《ね》てしまったが、それからは余り長く寐たらしくはない。どうしても夜明け近《ぢか》くなってからである。
なんでも大村と一しょに旅行をしていて、どこかの茶店に休んでいた。大宮で休んだような、人のいない葭簀張《よしずば》りではない。茶を飲んで、まずい菓子|麪包《パン》か何か食っている。季節は好く分からないが、目に映ずるものは暖い調子の色に飽いている。薄曇りのしている日の午後である。大村と何か話して笑っていると、外から「海嘯《つなみ》が来ます」と叫んだ女がある。自分が先きに起《た》って往来に出て見た。
広い畑《はた》と畑との間を、真直に長く通っている街道である。左右には溝《みぞ》があって、その縁《ふち》には榛《はん》の木のひょろひょろしたのが列をなしている。女の「あれ、あそこに」という方角を見たが、灰色の空の下に別に灰色の一線が劃《かく》せられているようなだけで、それが水だとはっきりは見分けられない。その癖純一の胸には劇《はげ》しい恐怖が湧《わ》く。そこへ出て来た大村を顧みて、「山の近いのはどっちだろう」と問う。大村は黙っている。どっちを見ても、山らしい山は見えない。只水の来るという方角と反対の方角に、余り高くもない丘陵が見える。純一はそれを目掛けて駈け出した。広い広い畑を横に、足に任せて駈けるのである。
折々振り返って見るに、大村はやはり元の街道に動かずに立っている。女はいない。夢では人物の経済が自由に行われる。純一は女がいなくなったとも思わないから、なぜいないかと怪しみもしない。
忽ちscene[
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