の傍《わき》で、ふいと見附けて買ったのである。
それから純一は、床の間の隅に置いてある小葢《こぶた》を引き出して、袂から金入れやら時計やらを、無造作に攫《つか》み出して、投げ入れた。その中に小さい名刺が一枚交っていた。貰ったままで、好くも見ずに袂に入れた名刺である。一寸《ちょっと》拾って見れば、「栄屋おちゃら」と厭《いや》な手で書いたのが、石版摺《せきばんずり》にしてある。
厭な手だと思うと同時に、純一はいかに人のおもちゃになる職業の女だとは云っても、厭な名を附けたものだと思った。文字に書いたのを見たので、そう思ったのである。名刺という形見を手に持っていながら、おちゃらの表情や声音《せいおん》が余りはっきり純一の心に浮んでは来ない。着物の色どりとか着こなしとかの外には、どうした、こう云ったという、粗大な事実の記憶ばかりが残っているのである。
しかしこの名刺は純一の為めに、引き裂いて棄てたり、反古籠《ほごかご》に入れたりする程、無意義な物ではなかった。少くも即時にそうする程、無意義な物ではなかった。そんなら一人で行って、おちゃらを呼んで見ようと思うかと云うに、そういう問題は少くも目前の問題としては生じていない。只棄ててしまうには忍びなかった。一体名刺に何の意義があるだろう。純一はそれをはっきりとは考えなかった。或《あるい》は彼が自ら愛する心に一縷《いちる》のencens《アンサン》を焚《た》いて遣った女の記念ではなかっただろうか。純一はそれをはっきりとは考えなかった。
純一は名刺を青い鳥のペエジの間に挟んだ。そして着物も着換えずに、床の中に潜り込んだ。
十九
翌朝純一は十分に眠った健康な体の好《い》い心持で目を醒《さ》ました。只|咽《のど》に痰《たん》が詰まっているようなので咳払《せきばらい》を二つ三《みつ》して見て風を引いたかなと思った。しかしそれは前晩《ぜんばん》に酒を飲んだ為めであったと見えて漱《うが》いをして顔を洗ってしまうと、さっぱりした。
机の前に据わって、いつの間にか火の入れてある火鉢に手を翳《かざ》したとき、純一は忽《たちま》ち何事をか思い出して、「あ、今日だったな」と心の中《うち》につぶやいた。丁度学校にいた頃、朝起きて何曜日だということを考えて、それと同時にその日の時間表を思い出したような工合である。
純一が思い出したの
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