最後の「e」は「´」付き]《ヴァニテエ》が動き出して来るのである。しかし恋愛はしない。恋愛というものをいつかはしようと、負債のように思っていながら、恋愛はしない。思慮の冷かなのも、そのせいだろうかなどと考えて見る。
広小路で電車を下りたときは、少し風が立って、まだ明りをかっかっと点《とも》している店々の前に、新年の設けに立て並べてある竹の葉が戦《そよ》いでいた。純一は外套の襟を起して、頸を竦《すく》めて、薩摩下駄をかんかんと踏み鳴らして歩き出した。
谷中の家の東向きの小部屋にある、火鉢が恋しくなった処を、車夫に勧められて、とうとう車に乗った。車の上では稍々《やや》強く顔に当る風も、まだ酔《えい》が残っているので、却《かえっ》て快い。
東照宮の大鳥居の側《そば》を横ぎる、いつもの道を、動物園の方へ抜けるとき、薄暗い杉木立の下で、ふと自分は今何をしているかと思った。それからこのまま何事をも成さずに、あの聖堂の狸《たぬき》の話をしたお爺いさんのようになってしまいはすまいかと思ったが、馬鹿らしくなって、直ぐに自分で打消した。
天王寺の前から曲れば、この三崎北町《さんさききたまち》あたりもまだ店が締めずにある。公園一つを中に隔てて、都鄙《とひ》それぞれの歳暮《さいぼ》の賑《にぎわ》いが見える。
我家の門で車を返して、部屋に這入った。袂から蝋《ろう》マッチを出して、ランプを附けて見れば、婆あさんが気を附けてくれたものと見えて、丁寧に床が取ってあるばかりではない、火鉢に掛けてある湯沸かしには湯が沸いている。それを卸して見れば、生けてある佐倉炭が真赤におこっている。純一はそれを掻き起して、炭を沢山くべた。
綺麗《きれい》に片附けた机の上には、読みさして置いて出たマアテルリンクの青い鳥が一冊ある。その上に葉書が一枚乗っている。ふと明日箱根へ立つ人の便りかと思って、手に取る時何がなしに動悸《どうき》がしたがそうでは無かった。差出人は大村であった。「明日参上いたすべく候《そうろう》に付、外《ほか》に御用事なくば、御待下されたく候。尤《もっと》も当方も用事にては無之《これなく》候」としてある。これだけの文章にも、どこやら大村らしい処があると感じた純一は、独り微笑《ほほえ》んで葉書を机の下にある、針金で編んだ書類入れに入れた。これは純一が神保町《じんぼうちょう》の停留|場《ば》
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