鮪の鮓にその醋を附けて頬張った。
「どうだい。君は鮓を遣らないか」
「僕はもうさっきの茶碗蒸しで腹が一ぱいになってしまった。酒も余り上等ではないね」
「お客次第なのだよ」
「そうかね」純一はしょさいなさに床の間の方を見廻して云った。「なんだね。あの大きな虎は」
「岸駒《がんく》さ。文部省の展覧会へ出そうもんなら、鑑査で落第するのだ」
「どうだろう。もうそろそろ帰っても好くはあるまいか」
「搆《かま》うものか」
暫くして純一は黙って席を起った。
「もう帰るのか」と、瀬戸が問うた。
「まあ、様子次第だ」こう云って、座敷の真中を通って、廊下に出て、梯《はしご》を降りた。実際目立たないように帰られたら帰ろう位の考であった。
梯の下に降りると、丁度席上で見覚えた人が二人便所から出て来た。純一は自分だけ早く帰るのを見られるのが極《き》まりが悪いので、便所へ行った。
用を足してしまって便所を出ようとしたとき、純一はおちゃらが廊下の柱に靠《よ》り掛かって立っているのを見た。そして何故《なにゆえ》ともなしに、びっくりした。
「もうお帰りなさるの」と云って、おちゃらは純一の顔をじっと見ている。この女は目で笑うことの出来る女であった。瞳に緑いろの反射のある目で。
おちゃらはしなやかな上半身を前に屈《かが》めて、一歩進んだ。薄赤い女の顔が余り近くなったので、純一はまぶしいように思った。
「こん度はお一人でいらっしゃいな」小さい名刺入の中から名刺を一枚出して純一に渡すのである。
純一は名刺を受け取ったが、なんとも云うことが出来なかった。それは何事をも考える余裕がなかったからである。
純一がまだsurprise《シュルプリイズ》の状態から回復しないうちに、おちゃらは身を飜《ひるがえ》して廊下を梯の方へ、足早に去ってしまった。
純一は手に持ていた名刺を見ずに袂《たもと》に入れて、ぼんやり梯の下まで来て、あたりを見廻した。
帽や外套《がいとう》を隙間《すきま》もなく載せてある棚の下に、男が四五人火鉢を囲んで蹲《しゃが》んでいる外には誰《たれ》もいない。純一は不安らしい目をして梯を見上げたが、丁度誰も降りては来なかった。この隙《ひま》にと思って、棚の方へ歩み寄った。
「何番様で」一人の男が火鉢を離れて起った。
純一は合札を出して、帽と外套とを受け取って、寒い玄関に出た。
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