ここまで考えると、純一の心の中《うち》には、例の女性に対する敵意が萌《きざ》して来た。そしてあいつは己を不言の間に飜弄《ほんろう》していると感じた。勿論《もちろん》この感じは的のあなたを射るようなもので、女性に多少の冤屈《えんくつ》を負わせているかも知れないとは、同時に思っている。しかしそんな顧慮は敵意を消滅させるには足らないのである。
 幸におちゃらの純一の上に働かせている誘惑の力が余り強くないのと、二人の間にまだ直接なcollision《コリジョン》を来たしていなかったのとの二つの為めに、純一はこの可哀らしい敵の前で退却の決心をするだけの自由を有していた。
 退路は瀬戸の方向へ取ることになった。それは金鎖の少し先きの席へ瀬戸が戻って、肴を荒しているのを発見したからである。おちゃらのいる所との距離は大して違わないが、向うへ行《ゆ》けば、顔を見合せることだけはないのである。
 純一は誘惑に打勝った人の小さいtriomphe《トリオムフ》を感じて席を起った。しかし純一の起つと同時に、おちゃらも起ってどこかへ行った。
「どうだい」と、瀬戸が目で迎えながら声を掛けた。
「余り面白くもない」と、小声で答えた。
「当り前さ。宴会というものはこんな物なのだ。見給え。又踊るらしいぜ。ひどく勉強しやがる」
 純一が背後《うしろ》を振り返って見ると、さっきの場所に婆あさん連が三味線を持って立っていて、その前でやはりおちゃらと今一人の芸者とが、盛んな支度をしている。上着と下着との裾をぐっとまくって、帯の上に持て来て挟む。おちゃらは緋の友禅摸様の長襦袢、今一人は退紅色の似寄った摸様の長襦袢が、膝から下に現れる。婆あさんが据わって三味線を弾き出す。活溌な踊が始まる。
「なんだろう」と純一が問うた。
「桃太郎だよ。そら。爺いさんと婆あさんとがどうとかしたと云って、歌っているだろう」
 さすが酒を飲む処へは、真先に立って出掛ける瀬戸だけあって、いろんな智識を有していると、純一は感心した。
 女中が鮓《すし》を一皿配って来た。瀬戸はいきなり鮪《まぐろ》の鮓を摘《つ》まんで、一口食って膳の上を見廻した。刺身の醤油を探したのである。ところが刺身は綺麗に退治てしまってあったので、女中が疾《と》っくに醤油も一しょに下げてしまった。跡には殻附の牡蠣《かき》に添えて出した醋《す》があるばかりだ。瀬戸は
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