っていない。
 しかしおちゃらはこのにやけ男を、青眼を以て視るだろうか。将《は》た白眼を以て視るだろうか。
 純一の目に映ずる所は意外であった。おちゃらは酌をするとき、ちょいと見たきり顧みない。反応《はんおう》はどう見ても中性である。
 俳優はおちゃらと袖の相触れるように据わって、杯を前に置いて、やはり左の手を畳に衝いて話している。
「狂言も筋が御見物にお分かりになれば宜しいということになりませんと、勤めにくくて困ります。脚本の長い白《せりふ》を一々|諳記《あんき》させられてはたまりません。大家のお方の脚本は、どうもあれに困ります。女形ですか。一度調子を呑み込んでしまえば、そんなにむずかしくはございません。女優も近々出来ましょうが、やはり男でなくては勤めにくい女の役があると仰《おっ》しゃる方もございます。西洋でも昔は男ばかりで女の役を勤めましたそうでございます」
 金鎖は天晴《あっぱれ》mecene[ #一つ目の「e」は「´」付き。二つ目の「e」は「`」付き]《メセエヌ》らしい顔をして聞いている。おちゃらはさも退屈らしい顔をして、絎紐《くけひも》程の烟管挿《きせるさ》しを、膝《ひざ》の上で結んだり、ほどいたりしている。この畚《ふご》の中の白魚がよじれるような、小さい指の戯れを純一が見ていると、おちゃらもやはり目を偸《ぬす》むようにして、ちょいちょい純一の方を見るのである。
 視線が暫《しばら》く往来《ゆきき》をしているうちに、純一は次第に一種の緊張を感じて来た。どうにか解決を与えなくてはならない問題を与えられているようで、窘迫《きんぱく》と不安とに襲われる。物でも言ったら、この不愉快な縛《いましめ》が解けよう。しかし人の前に来て据わっているものに物は言いにくい。いや。己の前に来たって、旨《うま》く物が言われるかどうだか、少し覚束《おぼつか》ない。一体あんなに己の方を見るようなら、己の前へ来れば好《い》い。己の前へ来たって、外の客のするように、杯を遣《や》るなんという事が出来るかどうだか分からない。どうもそんな事をするのは、己には不自然なようである。強いてしても柄にないようでまずかろう。向うが誰にでも薦めるように、己に酒を薦めるのは造作はない筈である。なぜ己の前に来ないか。そして酌をしないか。向うがそうするには、先ず打勝たなくてはならない何物も存在していないではないか
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